「苦闘せよ」

2019年8月25日(聖霊降臨後第11主日)
ルカによる福音書13章22節~30節

「わたしは知らない、あなたがたを、あなたがたがどこからの者であるかを」と家の主人は言う。「どこからの者」とは、どこを起源として生じている者かということである。その人の起源がどこにあるのかを問うている言葉である。家の主人は、その人の起源を知らないのだから、見たこともないと言っているのである。
物事の起源にしても、人間の起源にしても、起源と言われるものはそのものの始まりである。物事にも人間にも始まりがある。その人や物事の始まりを知らない人には心からの関わりがない。起源を知っている人だけが、真実に関わりを持っている。もちろん、家の主人がその人を知っているとすれば、たとえの中で言われているように、「一緒に食事をしたことがある」、「話を聞いたことがある」ということも含まれるであろう。たいていの場合、これらは主人の側の認知ではなく、食事をした人や話を聞いた人の側の認知である。多くの人を前にして、一人の主人がすべての人を知っているとは言えない。知っているとすれば、個別に関わりのあった者だけである。噂で聞いたことがある人のことも、我々は知っていると言うものである。しかし、噂の主は、わたしのことを知らない。主人が知っている人は少ないということが「救われる者は少ない」ということである。それゆえに、イエスは「苦闘せよ」とおっしゃった。しかも「狭い戸口から入るように、苦闘せよ」と。
「狭い戸口」から入ることは「苦闘する」ことであるとイエスはおっしゃっている。苦闘するという言葉は、うめいている状態を表す言葉である。まさに狭い戸口から入ることはうめきつつ通ることである。この言葉は、もともとは競争を始める際の心理状態を表していた。競争する人は自分自身の弱さと苦闘している。他者と競争する前に、自分自身に勝たなければならないとも言える。自分との戦いにおいて、すでに負けている者は競争に勝つことができない。イエスがおっしゃる「苦闘せよ」とは自分と戦うことである。使徒パウロも同じ言葉を使ってこう言っている。「(競技に臨むために)苦闘する者すべてが、すべてのことを自制する(自ら制御する)」と。さらにパウロはこう続けている。「わたしはわたしの体を打ち叩く。そして、わたしは隷属させる。万が一にも、他の人に宣教して、自分自身が失格者となりはしないかと」と。パウロは、イエスがおっしゃった「苦闘せよ」という言葉をこのように理解し、自分自身との戦いを戦ったのである。「狭い戸口から入る」ということは、このような苦闘を自らに課すということである。
しかし、これが福音であろうかと訝る人もいる。イエスは「休ませてあげよう」とおっしゃったではないかと。もちろん、そうおっしゃった。休んで良いのである。苦闘ばかりを続けることは困難だから。しかし、いつまでも休んでいるわけには行かない。神の国に向かって歩み続けるために、休みは必要であるが、休んだ後再び歩き始める力をどこから得るのかということが問題なのである。
たとえの人のように、ただ話を聞いた。一緒に食事したということが歩き始める力になるであろうか。一時的には、力が回復されたように思えても継続できないものである。そのような人は、自分の力で何とかなると思っている人であり、神に頼ることを知らない人である。神に頼り続ける人は、神に祈る。祈りにおいて、神との関係が継続していく。苦難において祈る。苦しい状態を引き受けることにおいて祈る。祈りの中で、苦難も神が与え給うたものと受け取り、引き受ける。逃げ出したい自分自身を知って、十字架のイエスを仰ぎながら、力をくださいと祈る。このような苦闘をするようにとイエスは勧めておられる。このような苦闘をする者は、神との関係、イエスとの関係を自らのものとして生きている。神とイエスとがわたしの根源であると生きている。このような関係を結んでいない人を「あなたがどこからの者であるかを、わたしは知らない」とイエスはたとえで語っておられる。従って、「苦闘せよ」とのイエスの言葉は、神に、イエスに祈り求める生き方の継続を意味している。
「狭い戸口」は一人でしか入ることができない。すべての者が一人で入る戸口を与えられている。誰かと一緒に励まし合って入るのではない。一人苦闘して入るのである。使徒パウロが競争する人にたとえているとおりである。一人、自制し、自らに課していく生き方。これこそがイエスが求めておられる生き方である。もちろん、疲れたときも、イエスの許で休み、新たに力をいただいて走り続ける。これが我々キリスト者の生き方である。神と、イエス・キリストとの個別的な関係を生きるのがキリスト者である。キリスト者とは、キリストのものとされた者のことだからである。
キリストが、このわたしをご自分のものとしてくださったことを起源として生きるのがキリスト者である。自分がキリストを選んだのではない。キリストがあなたを選んでくださったのである。わたしが罪深くとも選んでくださった。わたしが背を向けていても呼んでくださった。この呼びかけは、すべての人に与えられている。与えられた呼びかけに、背を向けることなく、耳を開かれ、向きを変えた者は、頼るべきお方を知った者。いつまでも共にいるとおっしゃったお方を信頼している者。それゆえに、祈り続け、求め続け、苦闘し続ける。キリストの力によって走り続ける。これがキリスト者である。キリストが「どこからの者であるか」を知っておられる者である。
キリストの呼びかける声を起源として生きる者は、呼びかける声に従って生きている。十字架に従って生きている。十字架の向こうにある復活を目標として見定めて生きている。しかも、自らに力がないことを知っている。イエスが最後におっしゃる言葉のとおり、「見よ、第一であるだろう者たちが最後の者たちである。最後の者たちであるだろう者たちが第一の者たちである」ということが起こっている。「第一であるだろう」という未来は、「最後の者である」という現在に起源があるということである。すなわち、力無く、最後の者として今あることを認識している者は、神に祈り求め、神との関係を生き、神の力によって生きるであろう。それゆえに、未来においては「第一であるだろう」と言われている。その反対は明らかである。自負に膨らんだ者は、結局最後の者となるであろう。そして、戸は閉められてしまう、ということも起こる。この競争を生きて行くのは、自己自身への不信を生きている者である。他者との比較において安心している者は自分の力を過信してしまう。そして、神に祈ることがない。
自己自身への不信とは罪の自覚である。罪の自覚のある者が、常に自らを省み、自分の罪を見極める。罪がどこから来ているかを見極める。罪の自覚がある者を、イエスは「どこからの者であるかを知らない」とは言わない。罪の自覚を持って、神に祈り求める者を神は知っておられる。イエスも知っておられる。自らを制御し、苦闘する者をイエスは知っておられる。ご自分も十字架において苦闘されたイエスは、ご自分に従う者を知っておられる。神の国に至るまで、我々はイエスに従い、狭い戸口を通って入るように苦闘して生きる。「苦闘せよ」とおっしゃるイエスの呼びかけは、あなたが救われる者であって欲しいとの呼びかけである。
我々人間の第一の起源は神の愛、創造の愛である。そして、第二の起源はキリストの十字架、救いの愛である。第二の起源を生きる者は、第一の起源をも生きる。神の愛によって生まれたことを感謝し、キリストの十字架によって救われたことを感謝する。キリストに従って生きる道を歩み続ける。第一の起源だけに留まる者は、神との個別の関係を生きることができない。第二の十字架の愛によって生きる者は、第一の創造の愛がキリストの十字架に現れていることを知る。わたしのために苦闘してくださったキリストを愛する。キリストを愛する者が苦闘する者。自らの体を打ち叩いて、隷属させる者。狭い戸口はわたしの心。心を押し開いて、苦闘しつつ生きて行こう、神の国に至るまで。
祈ります。

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