「義人の復活」

2019年9月1日(聖霊降臨後第12主日)
ルカによる福音書14章7節~14節

「しかし、彼は招かれた人たちにたとえを語った。どのようにして、上席をしっかり捕まえるかを彼らは選び続けていた」と記されている。イエスがたとえを語った理由が、「上席をしっかり捕まえるようにと選び続けていた」人たちがいたからである。彼らにたとえで語ったように選ぶ者は選ばれない。なぜなら、自分で選んでいるからである。選ばない者が選ばれる。自分で選ばないで、与えられることを素直に受け入れるからである。選ぶ者は「自らを高くする者」と言われている。選ばない者は「自らを低くする者」である。さらに、最後には「招き返すことができない人たちを招くように」と言われている。つまり、見返りを求めないで招くことである。
ここでイエスが語っておられることは、自分で獲得する者は、与えられないということであり、自分で選ぶ者は選ばれないということである。彼らは、すべて自分が主体とならなければ我慢ならない人たちだからである。神をも差し置いて、彼らは自分が選ぶものを獲得するように生きている。自分が見返りを期待して、招き、与える。すべて自分のために生きている。自分に返ってくるように生きている。それゆえに、最終的には神から返ってくる、選ばれず、報いを受けないということが。これが、今日イエスが語っておられることである。
選ぶ者はどうして選ぶのであろうか。誰も認めてくれないと思うからであろうか。認めてくれなくとも、自分らしく生きていれば良いではないか。それなのに、認められるように生きようとする。認められないことが我慢ならない。認められることが彼らの生き甲斐である。選ぶ者は、自ら選ばれていないのだと主張している。そして、その通り、選ばれない。我々は、選ばれなければ選ばれないように、認められなければ認められないように生きていれば良い。どうして、認められることを求めてしまうのであろうか。ありのままで良いではないか。神がそうしておられるのだから、それで良いではないか。神が与えてくださるのだから、素直にそのままを受け入れれば良いではないか。そうできないということは、神の選びを否定しているということである。神に選ばれないことで、神を批判しているということである。つまりは、神を信頼していないのである。これが選ぶ者、見返りを求める者の姿である。
選ばず、見返りを求めず、与えられるままに生きる。それだけで良いはずなのに、どうしてそれができないのか。どうして、神を信頼できないのか。信仰がないからである。信仰は神の働きである。神の働きを素直に受け入れるがゆえに、信仰ある者は神を信頼する。マルティン・ルターが「注入された信仰と獲得された信仰」という討論において語っているように、「注入されないで獲得された信仰は無であって、獲得されず注入された信仰がすべてである」。「獲得された信仰は注入された信仰なしには悪だけを働く」のである。もし上席を選ぶ人たちが信仰があると考えているとすれば、それは「獲得された信仰」であろう。ルターはこうも言っている。「また注入された信仰だけが不敬虔な者らを義とするのに充分である」。「確かに何らのわざなしに信仰のみでないなら、信仰は虚しく、義としない」と。つまり、人を義とする信仰は「注入された信仰」なのである。そうであれば、選ぶ者たちは「獲得された信仰」のみであり、「注入された信仰」を拒否しているのである。それゆえに、イエスは最後にこうおっしゃっている。「なぜなら、あなたに与え返されるであろうから、義人たちの復活において」と。つまり、「義人」とは、見返りを求めず、自分で選ばない者なのである。
義人ではないがゆえに、選び、見返りを求める。義人であるということは、神に信頼して、ただ神に従う。信仰とは神に対する従順である。それゆえに、与えられた信仰を真実に生きている者は、与えられたように生き、置かれたように生きる。それができないのは、神を信頼していないからである。つまり、信仰がないからである。「獲得された信仰」は信仰ではない。思い込みであり、その人の夢、幻である。義人はあくまで神が義としてくださることを生きる。それゆえに、義人は神に信頼している。義とされなくとも、神が決めたことを受け入れる。それが義人であるならば、義とされなくとも義人であるということになる。これはおかしい論理になると思えるであろうが、これが義人の真実である。義人はあくまで神を主体として生きるからである。義人ではない者、罪人は自分を主体として生きている。それが原罪なのである。
イエスが言う「義人の復活」はあくまで神が決め給うこと。神が復活させようと決め給う者が義人である。その決定を左右するのは、素直に神に従うか否かである。だとすれば、やはり人間が神の決定を左右するということになりはしないかと思えるであろう。ところが、そうではない。決定を左右するのが神の決定を素直に受け入れることであれば、義人として決定されなくとも受け入れるのである。義人とされなくとも義人であるという矛盾に生きることになる。しかし、それが我々キリスト者の真実なのである。
我々は、義とされたいと願い、義とされるための資格を求めてきた。ところが、自分が義とされる資格を獲得するのではなく、神が義とすることを受け入れることであると信じて、ただ神に委ねた。罪人は罪人である。義人ではない。しかし、それを受け入れた罪人が義とされる、義と認められる。ということは、義人ではない者が信仰を通して義と認められるということである。義認とは見なしなのである。ルターが言うとおり、義人にして同時に罪人なのである。この表現も矛盾している。罪人は義人ではない。しかし、罪人であると認めた者が義人であるという矛盾である。選ばない者が選ばれる。見返りを求めない者が与え返される。キリスト者とは、この矛盾の中で、ただ神に信頼する者のことである。
論理的には矛盾しているが、信仰的には正しい。上席を選ばなければ、上席に着くことができない。認められるように働かなければ、認められない。こう思って生きている限り、上席に着くことも、認められることも、与え返されることもないであろう。そこには神への信頼がないからである。神の絶対性を否定する心が主体となっているからである。神が見てくださっていないと思うがゆえに、見てもらえるように目立たなければならないと考えるとき、神の視線を限定的なものと考えているのである。いかに小さなことにも目を注いでくださっている神を信頼していない。イエスが別の箇所でおっしゃったように「隠れたところで見ておられる」のが神である。このお方の御支配の中に生かされていると信頼しているならば、動揺することはない。ただ、信頼していれば良い。たとえ、期待した通りにならないとしても、神の絶対的意志を受け入れれば良い。それがキリスト者。それが与えられた信仰を生きるということである。それが義人である。義人の復活において、与えられる最後の与え返しがあるということもただ神に信頼していれば良い。我々は、この地上で生きる間、何も見返りを期待せず、上席を選ばず、置かれたように、置かれたところで、与えられるものを素直に受け入れて、生きて行けば良いのだ。それが、神に義と見なしていただける罪人である信仰者なのである。
キリストは、地上にあって生きておられる間、すべてを神に期待して生きてくださった。十字架の上においても、神の意志が生じると信頼して苦難を引き受けられた。キリストが生きたいのちは真実の信仰である。このお方のいのちがあの十字架に輝いている。このお方のいのちがあなたのうちに形作られるようにと、キリストは聖餐を設定してくださった。キリストの言葉を素直に聞き、「キリストの体」、「キリストの血」に与ろう。キリストがご自身を与えてくださるほどに、あなたは認められているのだ。愛されているのだ。これほどの大きな賜物を与えてくださる神に感謝して生きて行こう。そのとき、あなたのうちには、信仰が注入され、キリストと一つとされる。生きているのはもはやあなたではない。あなたのうちにキリストが生きておられる。
祈ります。

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