「であるために」

2019年9月8日(聖霊降臨後第13主日)
ルカによる福音書14章25節~33節

「そのように、あなたがたのうちのすべての者で、自分の所有すべてに別れを告げない者は、わたしの弟子であることは可能ではない」とイエスは言う。「所有に別れを告げる」と言われているように、所有を離れることがイエスの弟子「である」ことを可能とするのである。イエスの弟子「である」ためには、すべてを捨てなければならない。「別れを告げる」ということは、所有しないことだからである。
所有することは、我々人間には自分が何者かであることを保証するようなものである。所有のない者は何者でもないと思えてしまう。所有の量や価値が、その人の価値を決めると考えてしまうのが、我々人間である。それは、価値というギリシア語が「重さ」を意味していることからも了解できるであろう。自らの所有の重さによって自らの価値を保持すると考える者が、所有に別れを告げて生きるとすれば、何も持たずに生きることになる。神の意志を受けて、すべてを捨て、公生涯に出たイエスならば可能であろうが、所有を積み上げて、現在に至った我々には捨てることは苦しいことである。所有によって安心を得ているからである。
イエスに従うことは、所有を離れ、神が与え給うもので生きることである。イエスが生きていた時代ならば、イエスについて行くためには、そうせざるを得なかったであろう。物理的にイエスについて行くためには、家族を捨てて家を離れなければならなかったのだから。しかし、現代では同じことをしようとしても、イエスは地上にはおられない。それゆえに、家に居て、所有を離れることで良いのではないのかと思える。所有を離れて、自分の所有であると主張せず、何であろうとも他の者に使用させるならば、そうかも知れない。ところが、我々は自分のものは他の者に使用させることはない。わたしのものはわたしのもの。あなたのものはあなたのもの。それぞれに自分のものを使おうと言うであろう。このようなわたしが本当に所有を離れることができるのであろうか。できない。弟子たちには可能であったことが、我々には不可能である。だとすれば、我々は永遠にイエスの弟子ではあり得ない。
たとえの中の王が和解するのは、自分の所有を捨てることである。そうでなければ、平和は得られない。所有を放棄して、ようやくいのちを守ることができる。所有を守ろうとするならば、一万の兵で二万の兵に勝たなければならないのだ。それが不可能だと了解すれば、王は使節を送るであろうと言われているのである。不可能が分かれば、使節を送り、平和のための諸々の事を願うであろうと。所有を離れるためには、不可能を知る必要があるということである。所有に別れを告げるには、自らの不可能性の認識が不可欠である。不可能性を認識すれば、自らにあると思っていた力に別れを告げるであろう。それと同じように、自分自身が積み上げたと思っているものに別れを告げないならば、イエスの弟子であることは可能ではないと言われているのだ。しかし、イエスの弟子であることの不可能性を認識するとき、我々はイエスに使節を送るであろう。祈りという使節を。
祈りは、不可能性の認識のない者には必要ないものである。自分には力があり、自分の力で何とかできると思っている間は、祈ることなどないのが人間である。祈るときは、もはやどうにもしようがないと思えるときである。そこまで行かなければ、我々は祈らない。それが罪人の悲しさである。結局、我々人間は究極まで行かなければ祈ることはないのだ。そのときには、すべてを手放さざるを得ないところに至っている、たとえの王のように。そこまで行かなければ、自分で手放すことはできない。そこまで行って、ようやくイエスの弟子「である」ことが可能となると言える。
イエスの弟子「である」ということは、我々から始まることではなく、神から始まることである。我々が、自分でイエスの弟子になり得ると思っている限りは、弟子「である」ことは不可能なのである。なり得るということは、自分の持っているものでなり得ると思っているからである。しかし、「である」ことは、持っているものではない。ただ、そうであるということが「である」なのだから。我々は「である」よりも「なる」ことを求めている。何者かになりたい。認められる者になりたい。偉い人になりたい。歴史に名を残す人になりたい。「なりたい。なりたい」と考えて生きている。そして、「である」ことを生きることができない。
我々は何者かになることが人生の価値だと思い込んでいる。何者かになれないならば、こんなことをしても何の意味もないと考えてしまう。何者かになることが人生の目的であると思っている。そして、今の自分自身を受け入れることができない。今そう「である」わたしを受け入れることができない。もっと、良い生活ができるようになりたい。もっと、自分の好きなことができるようになりたい。そのためにはもっと力を付けなければならない。そうして、いつまで経っても、今のわたしを受け入れることができないまま、今のわたしを捨て続けている。これが、何者かになりたい人間の姿である。
良い父親になりたい。良い母になりたい。良い息子になりたい。良い娘になりたい。良い嫁になりたい。社会に認められる人間になりたい。できれば、苦労せずになりたい。自分ならなれそうだと思う。自分を認めてくれない社会がおかしいのだと思う。こうして、我々は何者かになることを至上命令としてプログラムされた存在のように生きることになる。今そう「である」ことを受け入れることなく、将来「なりたい」ことを求めて生きる。
もちろん、将来なりたいことを求めて、今なすべきことをこつこつ行う人もいる。そのような人は、今そう「である」ところから始めている。「である」ことから始める。なりたい将来は、今の自分には不可能であることを認識している。今そう「である」ところから始める人は、自己を素直に認めている。それゆえに、今そう「である」ことを受け入れている人は、自己の不可能性から始める。一つひとつこつこつと取り組み生きる。それは祈りのように生きることである。祈るように生きる者は、自らの不可能性を認識している。その姿を、人は努力していると見るかも知れないが、それは努力でもなく、今可能であることを為しているだけである。王が使節を送ることも、そのとき王にとっての可能であることだった。何者かになりたくて、使節を送ったのではない。何者でもないことを知って、不可能性を知って、使節を送った。そこにある自己認識の正しさが祈りとの共通項である。
罪深きものであるとの自己認識、罪の自覚は、不可能性の認識である。罪の自覚を持った者が祈る。そして、神との間に平和を得る。今そう「である」ことを生きる力を得る。そこから始める者は幸いである。なぜなら、不可能性を認識することは自分ではできないからである。神が不可能性を認識させ給い、祈りを起こし、祈りを実現し給うところに生きるからである。いや、そう生きざるを得ないというところに生きるからである。これが今日、イエスが我々に語っておられることである。
我々の罪は、我々に「なりたい」心を起こす。しかし、罪の自覚は「である」ことを生きる力を与える。不可能を可能とする方を仰ぐようにと導く。このように導かれる者は、究極まで行き着いた者。祈るしかない者。そして、神に頼る者。真実に神に頼る者を神は見捨て給うことはない。それゆえに、所有に別れを告げることができない自分を知り、別れを告げることができるようにと神に祈る者は、必ずやそうであるところに生きるであろう。自分自身を神に委ねて生きる者とされるであろう。
我々のために、十字架を負い給うたイエス・キリストは、我々が不可能を認識するところへと導き給うお方。ご自身も十字架という不可能性の中に生きたお方。このお方の力があなたに来たる。あなたのうちに十字架の主が生きてくださる。我々は落胆する必要はない。不可能性を素直に認め、神に祈ろう。神は信仰を起こし、祈りを与え、実現してくださる。あなたは神のもの。神の愛する存在「である」。
祈ります。

Comments are closed.