「富の使い方」

2019年9月22日(聖霊降臨後第15主日)
ルカによる福音書16章1節~13節

「そして、主人は称賛した、不義である執事を。なぜなら、彼が賢く行ったから」とイエスはたとえで言う。「不義」であろうとも「賢く行う」ことが称賛されている。そして、イエスは言う。「自分自身に作れ、友を、不義な富から」と。「富」はもともと不義であるとイエスはおっしゃっている。それゆえに、不義である執事が賢く行ったことは、不義なる富を賢く使用したということである。主人の証文を書き換えさせるということは不義である。主人の富を自分が着服していたのか良くは分からないが、執事は主人のお金を散財していたのであろう。主人に知られて、執事の職を失うことになった。そこで、自分に友を作るということを思いついた。そして、主人の不義である富を使って、友を正当な状態に回復してあげた。これが賢いと称賛されている。主人も不義の富を作っていたことが明るみに出ては困るから、訴えることもできなかったということである。主人の証文は、借金の水増しを取り除いて、正当な金額にされただけだった。これを訴えることはできない。それゆえに、不義である執事は称賛されている。主人に損をさせたわけでもないからである。さらに、執事はそこで主人の富を着服したわけではなく、ただ友を作った。それゆえに、イエスは「友を作れ」と言う。しかし、このような執事を自分の家に迎えてくれるであろうか。不義を不義で繕うような人間を迎えてくれるであろうか。この点がイエスのたとえの理解不能な点である。
この執事は、証文を書き換えさせた人たちから何も得ていないし、彼らと契約をしたわけでもない。それゆえに、彼らが必ず執事を迎える保証はない。執事は、二人に同じようにしているが、二人どちらもが彼を迎えてくれるわけではないであろう。しかし、どちらか一人で十分である。そうであれば、執事は保証のないことを承知の上で、二人に保険をかけたと言えるかも知れない。しかし、二人とも迎えてくれないということもあるのだ。それも承知の上で、執事は彼らに良いことをした。それだけである。誰も自分を迎えてくれることがなくても良いというところに執事は立っている。何の保証もなくても、二人には良い友になった。それだけである。
友だから、何かをしてもらえるというわけではないであろう。しかし、困ったときには助けてくれることもある。執事は、そのように友を作ったのである。ただ、このような行為が友を作ることになるのかどうかと疑問に思える。友は、友を作ろうとして作れるものなのだろうか。友になるということは、何か感じるものがあって結ばれるものである。作ろうとして作れるものではない。それゆえに、執事は友を作ろうとして行ったかもしれないが、友になった者が一人でもいたかどうかは分からない。友も保証されているものではないのだ。だとすれば、イエスが「友を作れ」とおっしゃるのは、善きサマリア人のたとえのように、自分が誰かの友になれということではないだろうか。最終的に、友になるかどうかは神のみぞ知る。それでも、友になろうとせよということであろう。
友は作ろうして作ることができるものではない。何か必然的に出会い、感じ、友として作られるものである。自分が努力しても友を作ることはできない。友になるべき者が友になるだけである。それでも、友を作ろうとすることをイエスは求めておられる。どうしてなのか。それは、不義である富を如何に使うのかということを教えるためである。
このたとえの前に、イエスは放蕩息子のたとえを語っておられる。放蕩息子は、どれだけ富を持っていても、誰も友にはなってくれなかった。富に近づいて来た者たちは、富がなくなれば去って行った。何もなくなった弟息子が見出したのは、父の家の下僕たちの幸いであった。そして、息子を失っていた父が、帰還した息子を喜び迎えた。この話に続いて、今日のたとえをイエスは語った。ということは、富を使っても、友はできないということである。ただし、富はすべて不義であると認識した者が、賢く使用することができるというのが、今日のたとえの意味である。
自らの不義を認め、執事の職を奪われることを受け入れた者が、友を作ろうとした。しかし、何の保証もない友作りであった。それでも良いと彼は友になった。彼が二人の友になったのは、主人が不義にも借金の水増しをしていたことを知っていたからである。執事は、水増しされた人たちの立場に立ったのである。それまでは、何も感じなかったであろう執事が、自分の不義を認めたとき、不義が如何に彼らを苦しめるものであるかを知った。そして、彼らの苦しみを義しい状態にしてあげた。それが、執事が彼ら二人の友になったということであろう。彼らの苦しみに共感したということが、執事が彼らの友になったということである。
執事は、自業自得とは言え、自らの困窮においてようやく人間的な感情を回復したということである。放蕩息子も同じであった。すべてを失って、誰も見向きもしてくれなくなったとき、父の家を思い出して、自分を取り戻したのだから。すべてを失ったとき、人は何もない自分を知る。そして、自分が生きる意味を考える。誰かのために自分にできることを為して生きる。しかし、見返りは求めない。そのように生きる意味を考えるようになる。これが不義な執事が到った「友を作る」ことである。執事は富の使い方を知った。不義である富を使って、友を作ることを知った。不義である富は、友を作るために使えとイエスはおっしゃっているのである。
不義である富を蓄えても、友は作れない。富は不義なのだから、蓄えることで不義が蓄えられていくだけである。富を獲得しようとしないことにおいて、富は友を作るために使われる。ただ、使われるのであって、見返りはないとしても、使われる。それだけで良いと、手放すことである。それが不義である執事が行った賢いことであった。光の子らは、不義である富を敬遠し、手を触れようとしないであろうが、この執事は不義である富を使って友を作った。そして、富を手放した。誰も自分に蓄える者がいなかったのである。それが富の使い方であると、イエスは言うのだ。
富は不義であるという認識からしか、このような使い方は生まれない。富は不義であると認識することが、富を蓄えない魂を作る。そして、ただ友を作る魂とされる。富は不義であるとしても、友を作ることができる。誰も損はせず、誰も蓄えもしなかった。これがイエスのたとえである。ということは、富を不義だと認めることからしか生まれない生き方があるということである。富を蓄えても友は作れない。富と共に去って行く。それでもなお「友を作る」こと。他者の苦しみを共感すること。他者の窮状を救うこと。しかも、それ以上には出ないこと。それが、今日イエスが教えてくださっていることである。
我々は富を上手に使用しなければならない。不義を貯め込むようになってはならない。自分だけが地位を得て、ふんぞり返っていてはならない。誰かを助けるために生きなければならない。それで、自分が何も得ないとしても、他者の苦しみを軽くしてあげることが重要なのだ。そのために、生きることが我々人間が真実に生きることである。このイエスの教えは、イエスご自身の生き方である。他者のために働き、他者の苦しみを共に担い、他者を支える。しかし、その人が頼るようにはしない。自分で生きる力を与える。借金を正当にしてもらった三人は希望をもらったことであろう。誰かが希望を持って生きて行くように支える。それが「友を作る」ということである。
富は他者のために使う。他者が生きる力を得るようにと使う。そして、富を手放す。このように生きる人間が回復されるために、イエスは十字架を負ってくださった。イエスの十字架によって、自分で負ってしまっていた我々の罪の負債は軽くされ、罪が働かないようにされた。イエスは、我々が不義なる富を使って生きざるを得ないことをご存知である。その富を正しく使い給うたイエスに従って、友を作る者、共感する者として生きて行こう。
祈ります。

 

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