「言を聴く」

2019年9月29日(聖霊降臨後第16主日)
ルカによる福音書16章19節~31節

「もし、モーセと預言者たちに、彼らが聴いていないならば、もし誰かが死者たちから復活しても、彼らは誰も説得されないであろう」とイエスは最後に言う。誰も説得されないのは、聴かないからである。すでに語られているモーセと預言者たちの言葉がある。それを聴いていない者は、死者たちから復活する者の言うことも聴きはしない。彼らの耳は、自分が聴きたいことだけを聴くからである。聴くべきことを聴かず、聴きたいことだけを聴く。それが罪人の在り方である。その在り方は、死んだ後も変わることはない。金持ちが良い例である。
金持ちは、死んでも悔い改めてはいない。ただ、苦しい現状から何とか逃れたいと考えているだけである。そのために、ラザロを使おうとする。ラザロが、自分のために、深い淵を越えてやって来て、自分の舌に水を垂らしてくれるようにと、アブラハムに願う。死んでなお、ラザロを使う思考から抜け出せない。ラザロという名を知っているのだから、門前で物乞いをしていたこのラザロを彼は知っていた。しかし、彼は何もせず、ラザロは死んでしまった。自分も死んだ。死は、誰にでも平等に訪れる。門前の物乞いであろうと、金持ちであろうと死ぬ。そして、生前の生き方は何も変わることはない。変わっているのは、慰められる苦しんだ者と、苦しむ恵まれた者という位置関係の変化だけである。位置関係が変わっても、生き方自体は変わっていない。生きることに対する思考は変わってはいない。金持ちは、生前に生きていたように、自分のために誰でも使えると思っている。それを悔い改めることなく、兄弟たちにラザロを遣わしてくれれば、彼らはこんなところに来ることはないだろうと言う。死んだ本人が変わっていないのだから、死んでもいない兄弟が変わることはない。それゆえに、イエスは言う。「もし、モーセと預言者たちに、彼らが聴いていないならば、もし誰かが死者たちから復活しても、彼らは誰も説得されないであろう」と。
では、悔い改めることはどのようにして可能なのであろうか。死んでも悔い改めないとすれば、その人本人から悔い改めが生じることはない。この金持ちは、モーセと預言者たちに生前聴いていなかった。死んでも聴いてはいない。それだけである。これを変えることは誰にもできないとイエスはおっしゃっているのだろうか。もし、そうであれば、すべては決定していることになる。この世で、苦しんでいる者に共感しない者は、死んでも共感しない。死んだならば、変わり得るということはない。苦しんでいる者に共感し、彼らを救うのは神の約束のみ。父なる神は、この世で苦しんでもなお、神に信頼している者を平安の懐に迎えてくださる。
ラザロに信仰があったかどうかは何も語られてはいない。ラザロが神を信頼していても、誰も助けなかった。誰も彼を迎え入れることはなかった。それがこの世である。ラザロは、誰も助けてくれはしないことも受け入れざるを得なかった。人間は誰も助けてくれない。ただ、神だけが助け給う。これがこの世の現実であり、神の現実である。これを変えることができると誰が言えるであろうか。人間たちが変えることができるとは誰も言えない。思想の上では、すべての所有を放棄して、すべての人が使えるようにすれば、現実は変わると思える。ところが、すべての人が放棄するはずはない。自分の権利は捨てないままに、他の人が捨てれば良いと考えるからである。この金持ちも、自分がこの苦しい場所にいながら、何も変わっていないのだ。自分が変わらないにも関わらず、兄弟たちに変わって欲しいと願う。このようなところに来ないで済むようにと願う。しかし、自分は変わらず、ラザロを物扱いしている。これが現実であり、これが罪だという認識はない。金持ちの兄弟たちも同じであろう。
何も変わり得ない世界と現実は、結局神の裁きの前に立たなければならない。裁かれて、ようやく苦しみを引き受けなければならなくされる。それだけである。この世で、苦しみを引き受けることなく、他者の苦しみを共に担うことなく、自分のためにすべてを使っていた者は、逃れられない苦しみを負わされてようやく負うのである。ラザロのように、負わされて負ってきた者は、負った分の報いを受けている。こうして、すべての者が等しく負うべきものを負うところに立つということである。それを為し給うのは神である。
自分の救いのために苦しみを負おうとする功利的な者は、死んでも功利的に生きる。それゆえに、兄弟だけに、ラザロを送ってくれと言うのだ。彼が考えているのは、自分の家族のことだけである。家族がラザロのような者を迎え入れれば、家族の死後の世界は変わると思っている。変わりはしない。言を聴く者は、聴く。聴かない者はいつまでも聴かない。それが真実である。そして、そのような者として決定しているだけである。
我々は、決定していると思うと、絶望してしまうであろう。しかし、決定していることが現れるか否かは、死んでようやく分かることである。金持ちもそうだった。死んでようやく分かるということは、生きている間に、功利的に負っても、結局何も変わらないということである。聴く耳を持っているならば、聴く。聴く耳を持っていないならば、聴かない。それだけなのだ。それを変えることはできない。できるとすれば、神のみ。わたしを造った神のみが可能である。キリストの十字架は、神のみがキリストを起こす力を持っておられると語っている。このキリストの言を聴くことしかない。わたしを変えてくださるとすれば、キリストの十字架の言なのである。
使徒パウロが言うように、「十字架の言は、滅んでいる者には、愚かである。しかし、救われているわたしたちには、神の可能とする力である。」ということである。神の可能とする力として、十字架の言を聴いている者は、「救われている者」である。救われていない者は聴いていない。救われるために聴けば良いということでもない。聴いている者が救われているというだけである。そうであれば、我々は何を聴くかを良く考えたとしても、それで聴くことができるわけでもない。なぜなら、共感することは、同じ魂でなければ可能ではないからである。十字架の言を聴いて、共感するのは同じ魂だったというだけなのだ。しかし、キリストと同じ魂ではないということを受け入れた者は、聴いている。聴いていなければ、語られた言葉を受け入れ、従うことはないからである。
言を聴くということは、単なる言語としての言葉ではなく、出来事としての言を聴くことである。その言によって、促され、心動かされ、共感し、自らの罪を認める者は、聴いている。あなたがたは、キリストの言、十字架の言を聴いて、受け入れた者。キリスト者とは、キリストの十字架の言に動かされ、変えられた者。キリストの言は、世界を創造し給うた神の言と一つである。この言を聴く者は、神の創造の言が世界を造り出したように、神の意志に従う者として新たに造られていく。
モーセと預言者に聴く者は、キリストの言を聴くであろうし、神の言を受け入れる。イエスはこのたとえでこのように語っている。我々の耳が開かれるならば、我々は造り替えられる。苦しみを引き受け、他者の苦しみに共感し、共に担い、助け合ういのちが起こされる。あなたのうちに、キリストが復活し給う。それが、神の言を聴くということである。
あなたがたが、神の言を聴き続ける者であるようにと、キリストは聖餐を設定してくださった。聖餐には、キリストの愛が宿っている。ただ、言葉に従う者を造り出す愛が宿っている。今日も感謝していただこう。あなたのために、ご自身を十字架に投げ出してくださったお方の愛が、あなたの耳を開き、言を聴く者として新たに造り出してくださる。あなたはキリストのもの。神のもの。あなたを愛するお方のもの。苦しみを引き受け、苦しみの恵みを経験し、苦しみの実りを他者に伝える者が、あなたなのだ。どうか、我々のうちに、キリストが生きて働いてくださるように。我々を神に従う者としてくださるように。キリストの体と血に与り、キリストに生きていただこう、罪深いわたしのうちに。
祈ります。

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