「信仰を与え給え」

2019年10月6日(聖霊降臨後第17主日)
ルカによる福音書17章1節~10節

「信仰を増し加え給え」と言う弟子たちにイエスは言う。「もし、あなたがたがからし種の穀粒のような信仰を持っているならば、桑の木に根を引き抜かれて、海の中で植えられよとあなたがたが言い、それはあなたがたに従うであろうに」と。ここで、不確定の事柄を述べる言葉アンが二回使われている。「もしもそのようなことがあれば」という意味である。「もしもあなたがたが信仰を持っているというようなことがあれば」ということであり、「あなたがたに従うというようなことがあるかも知れない」という意味である。つまり、「あなたがたには信仰はないのだが、もし持っているならば、このようなこともあるかも知れないのだ」とイエスは言っているのだ。
我々は自分が信仰を持つことができると思い込んでいる。いや、信仰はわたしが信じることだと思っている。わたしが信じることも信じないことも選択できると思っている。果たして、それは信仰であろうか。わたしの恣意に委ねられた信仰は、確かにわたしの意志に従う信仰である。そのような信仰であれば、わたしの意志が信仰の主体だということになる。そうであれば、信仰はわたしの意志の支配下にあるのだから、自分が信仰を持とうと思えばいつでも持つことができる。そして、信仰を捨てることも自分の意志でできるということになる。これを信仰と呼ぶのであろうか。それが信仰であれば、単なる自分の意志でしかない。マルティン・ルターが「キリスト者の自由について」において語っているような善き行為の主体として働く信仰とは違う。
また、我々は自分の意志を自分で制御できると思い込んでいるが、本当に可能であろうか。苦手なものや苦手な人を、自分の意志で好きになることができるであろうか。一時的に、そう思い込んでも、本質は変わっていないのだ。緊急時には、本音が出て来るものである。自分の意志は、感情によって動かされている。感情を制御することができないのが罪人としての人間なのである。この感情を制御することは我々の意志では困難である。だとすれば、信仰も同じく制御できるはずはない。なぜなら、信仰は我々の意志から生まれるのではないからである。
信仰は、神の意志に対する従順である。神の意志が信仰の主体である。神の意志を我々の意志が受け取って、我々が自分の意志で神の意志を実行できると思い上がることは、不信仰なのである。受け取るべきものは提示されている。しかし、受け取ることができなかったがゆえに、我々の始祖アダムとエヴァは罪を犯したのではなかったか。これを考えてみれば、罪人には信仰はないということになる。信仰がないということは、信仰を持っていないということであり、信仰を受け取ることもできないということである。これが、アダムとエヴァが我々に残した原罪なのである。
しかし、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と癒された人たちに述べてもいる。そうすると、その「あなたの信仰」とは本当にその人の信仰なのだろうか。その人のうちから生まれた信仰なのだろうか。「あなたの信仰」という言葉からはそう読み取れる。ところが、我々に信仰がなく、信仰を生み出すこともできないとすれば、「あなたの信仰」とは「あなたに与えられた信仰」ということになりはしないか。マルティン・ルターはそう述べている。また、使徒パウロもそう言っている。神の事柄を認識するのは神の霊であるから、神の事柄を人間の理性が認識することはないのだと。神の事柄を我々が認識するとすれば、それは神が与え給うたご自身の霊によってしか可能ではないとパウロは語っている。これが、聖書が語っている信仰である。このような信仰を我々は自分で持つことはできない。このような信仰を自分のうちから生み出すこともできない。ただ、与えられた信仰のみが、我々を信じる者として造るのである。それでも、受け取ることさえも自分の意志ではないとすれば、どのようにして信仰がわたしのものとなるのであろうか。
信仰が神への従順であれば、信仰を受け取ることも我々には不可能だということになる。なぜなら、我々の始祖アダムとエヴァが神に背いた結果の原罪が、我々のうちに受け継がれているからである。原罪が、我々の意志によって受け継いだものではないと同じく、信仰もまた、我々が受け取ったり、受け取らなかったりできるものではないということになる。もし、受け取ることができるとすれば、預言者エレミヤが述べているように、母の胎にあるときから選び分けられているということになる。信仰を受け取る人は、信仰を受け取るようにされているのであり、後になって受け取るようになれるのではない。こう言われれば、どうにもしようがないと思ってしまうであろう。そうである。どうにもしようがないのである。聴く耳を持っている者は聴くが、持っていない者は聴かない。ただそれだけである。
「からし種の穀粒のような信仰」とイエスが言うのは、そのような信仰である。からし種の穀粒そのものに力が宿っていると同じような信仰を持っているならば、ということである。つまり、「力が宿っているような信仰を、あなたがたが持っているならば」とイエスはおっしゃっているのだ。そのような信仰は、今現在弟子たちにはないということを前提として語っている。それゆえに、自分たちが信仰を持っているかのように彼らが考えて、「増し加え給え」と願ったことに対して、「そうではない」とイエスはおっしゃっているのである。自分たちが信仰を持っているわけではないということを前提としなければ、神が与え給う信仰を生きることはできないということである。しかも、その信仰を受け取ることさえも、我々の意志によってどうにもすることができないのである。このような信仰はただ「与え給え」と祈ることしかできない。マルコによる福音書9章24節で悪霊に取り憑かれた息子の父親がイエスに求めるように「信じています。わたしの不信仰に助けに来てください」と。不信仰でありながら、信じていると言い、さらに「助けに来てください」と言う。不信仰を自覚した者が、助け給うお方を信じる者とされている。これが、イエスが与え給う信仰である。イエスが主体である信仰である。これをこそ、信仰と呼ぶ。マルティン・ルターが言うように、「義人にして罪人」とはこのような事態を指す言葉である。罪人は信仰を持たない。にも関わらず神を信じる従順を生きるようにされて、義人であるように生きる。これが信仰義認なのである。
我々は、自らの信仰を持ち得ない。信仰の主体であるイエス・キリストがわたしの主となってくださることを受け入れた者のうちにキリストが生きてくださることで、信仰を生きることができる。我々は自分自身の意志を良き方に向けることができない。しかし、うちに生きておられるキリストが、我々の意志を良き方へと向けてくださる。このキリストの働きがあってこそ、我々は信仰を生きることができる。この神秘的事実を述べるために、イエスは下僕のたとえを語っておられる。「わたしたちは役に立たない下僕です。わたしたちが行うように負っているものを行ってしまっているだけです」と述べる下僕が、信仰者の在り方として語られている。我々は命じられたこと、負わされたこと以上のことができるならば、役に立つと言えるが、負わされたことを行っているだけであれば、当たり前のことをしているだけである。信仰者は、自らが神の意志を越えたことを行うことはできないし、行ってもならない。神の意志を越えないということが信仰の従順だからである。このような信仰者は自らを「役に立たない下僕」と認識しているであろうとイエスは言う。それが神に与えられた信仰を持って生きるということである。
我々が動かすことができないような我々の意志を動かし給うのは、イエスの十字架によって来たる信仰である。信仰がわたしの主体として働くとき、我々は神のものとして生きる。そのために、イエスはご自身の体と血を与えてくださる。聖餐を通して、我々のうちに新しい信仰の息吹を吹き込んでくださる。みことばに従って受け取り、キリストに生きていただこう。
祈ります。

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