「一人の信仰」

2019年10月13日(聖霊降臨後第18主日)
ルカによる福音書17章11節~19節

「イエス、先生、わたしたちを憐れんでください」と遠く離れて叫んだライの人たち。彼らは、イエスの言葉に従って行く中で、清くされたと記されている。ところが、それに気づいたのは一人であった。気づいて、イエスの許に戻ったのは一人であった。イエスは言う。「10人が清くされたのではなかったか。9人はどこに」と。最後にイエスは彼に言う。「復活して、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ってしまっている」と。しかし、イエスが言うように「9人はどこに」。9人は、一人のサマリア人のようには、見出さなかった。何を見出さなかったのか。「神に栄光を帰すために向きを変えること」を見出さなかった。どうしてなのだろうか。
彼らは、最初「わたしたち」であった。最後は「わたしは清くされた」と認識したサマリア人だけになった。他の「わたしたち」はどこに行ったのか。見出さなかったと言われる9人は、神に栄光を帰すことを見出さなかった。彼らは、癒されても神に栄光を帰すことを発見できなかった。この発見は、どのような存在に可能とされている発見なのか。それは、一人に可能とされている発見である。そして、信仰もまた一人に可能とされている信仰である。
信仰は「わたしたち」の信仰ではなく「わたし」の信仰である。もちろん、わたしたちキリスト者は信仰告白において同じ言葉を告白する。しかし、その告白は「わたしたちは信じている」ではなく、「わたしは信じている」である。一方、イエスが教えてくださった主の祈りは「わたしたち」の祈りである。信仰は「わたしたち」の信仰なのか、「わたし」の信仰なのか。
信仰を告白するのは一人。「わたし」が信仰を告白する。祈るときには「わたしたち」として祈る。「わたし」のための祈りもあるが「あの人のため」の祈りもある。主の祈りは、「わたし」のための祈りと「あの人のため」の祈りが一つとなった「わたしたち」の祈り。他方、信仰告白は「わたし」の信仰告白。それは、当然のこと。あの人の信仰をわたしが告白することなどあり得ないのだから。また、わたしたちの信仰告白もあり得ない。なぜなら、信仰は「わたし」に与えられ、「わたし」が信じる者とされている出来事だからである。「わたしたち」が信じる者とされるのではない。信じている「わたし」が集められて、共に「わたし」の信仰を告白するのが、信仰告白である。この信仰告白が、ここで言われている「神に栄光を帰す」ことである。なぜなら、信仰告白とは、このわたしのために神が何を為し給うたかを告白することだからである。「わたし」という一人の信仰があってこそ、信仰告白は成り立つ。誰かと一緒に信じるなどということはあり得ない。誰かも「わたしの信仰」を持っていなければ、共に告白することはできない。それゆえに、ここでサマリア人だけが発見したのは、「わたしに与えられた信仰」である。その信仰は「神に栄光を帰す」信仰である。彼だけが、そのために向きを変えて、イエスの許へとやって来たからである。
10人の者が清くされた。しかし、与えられた信仰を発見したのは一人だけであった。すべての人に神の働きが行われたとしても、信仰を発見するのは十分の一だということである。この確率を考えてみれば、信仰は誰でも持つことができるわけではないということになる。また、信仰は発見するものだということになる。信仰は、「神に栄光を帰すことに向きを変える」ような発見なのである。
9人の者たちは、清くされても、信仰を発見できなかった。それは、彼らが仲間だったからである。サマリア人は仲間ではなかったから、発見することになった。ライによって仲間となっていた10人が、ライが清くされることによって、彼らを仲間としていた病がなくなった。それゆえに、当時の社会的区別が現前化した。ユダヤ人とサマリア人は交際しないという区別が現前化した。それによって、サマリア人は信仰を発見することになった。ユダヤ人たちは、仲間を離れることなく、仲間のまま祭司のところに行った。サマリア人は、エルサレムに行くことができない。エルサレムの祭司に見せることもできない。病の仲間からは置き去られ、人種的区別が現前化した。彼がユダヤ人であったならば、同じようにエルサレムに向かっただけで、信仰を発見することはなかったかも知れない。排除されること、仲間を失うことによって、彼は信仰を発見することができた。信仰を発見するのは、一人にされた者である。信仰が鍛えられるのも一人にされたときである。一人を受け入れる者が信仰を発見する。孤独の中でこそ、信仰は力となる。孤独なときこそ、信仰を発見する。これがキリスト教信仰の根幹である。なぜなら、イエス・キリストは十字架の上で一人を生きてくださったからである。
イエスは、十字架を一人で担い給うた。十字架の上で孤独に死に給うた。墓に一人で葬られた。墓から一人で復活させられた。イエスは公生涯に出て行くときも、一人であった。弟子たちが従っていても、イエスは孤独であった。弟子たちは、イエスを理解しなかった。多くの群衆がイエスの周りに集まってきたときにも、イエスは一人であった。群衆の中で孤独を生きておられた。ここでも、10人を清くしたにも関わらず、一人しか向きを変える者はいなかった。十分の一の信仰者のために、イエスは多くの人を癒し、恵みを注ぎ、休むことなく働いておられた、たった一人で。
十分の一なら多い方である。イエスのたとえでは、百分の一の救いを神は喜び給うと語られている。九十九匹を放っておいても、一匹の羊を探し求めると語られている。イエスご自身と同じように、イエスの働きは一人の信仰者のためであった。一人のために十字架に架かられた。ルカによる福音書における十字架の際にも、他の二人と共に十字架に架けられたが、一人だけがイエスを受け入れた。イエスは一人を生き、一人のために生き、一人の信仰を起こした。これがイエス・キリストの生涯であり、イエス・キリストのお働きである。このお方によって、信仰を与えられた我々キリスト者は、一人の信仰を与えられたことを忘れてはならない。どんなことが起ころうとも、イエスはこのわたしを救ってくださると信じる者がキリスト者である。十字架から流れ出るイエスの愛を受け取るのは、一人なのだ。
そう考えれば、一人の信仰者の集まりである我々が30人いるならば、300人が清められていることになる。270人は、信仰を発見できなくとも、清められてはいるということである。このたった一人の救いのために、イエスは10倍の働きを為してくださったということである。つまり、このわたしはイエスの10倍の働きに与っている者なのである。この恵みを忘れてはならない。使徒言行録16章16節以下で語られているように、捕らわれていたパウロから洗礼を受けた牢獄の看守にパウロが言う言葉「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」という言葉が語っている通りである。そのように救われた我々一人ひとりは、発見できなかった人が、いつか発見するようにと祈るのである。彼らが信仰を発見することによって、さらに多くの人たちが癒され、清められているということを覚えておきたい。
我々は、一人の信仰を与えられた十人のうちの一人である。神に栄光を帰して生きて行く一人である。信仰を告白して生きて行く一人である。あなたの信仰があなたを救ったとおっしゃるイエスの言葉を改めていただき、与えられた信仰に従って生きて行こう。我々一人ひとりに与えられている信仰がいかに貴重なものであるかを忘れないで生きて行こう。
我々は、主イエスと同じように、孤独の中でも神共にいます信仰に生きて行く幸いを与えられている。信仰を与えられているということは、この世で孤独であろうとも、絶対的に孤独ではないということである。神がこのわたしを愛し、救い、導いておられると信じているのだから。この信仰を見出した一人のサマリア人は幸いである。彼は一人、向きを変えた。我々も一人向きを変えた者。一人の信仰を生きて行く者。一人の信仰を与えられているあなたのうちに、イエスは生きておられる。
祈ります。

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