「贈与の幸い」

2019年10月27日(宗教改革主日)
マタイによる福音書5章1節~6節

「幸いな者たち、義を飢え渇き求めている者たちは。なぜなら、彼らは満腹にされるであろうから」とイエスはおっしゃる。ここでイエスが言う「義」ディカイオスュネーは、ヘブライ語ではツェダカーと言って、神の在り方そのものを表す言葉である。神がなさることはすべて「義」ツェダカーである。我々人間から見て、不義のように思えても「義」である。「義」とは物事が正しい状態にあることを意味している。それゆえに、神ご自身の在り方そのものであり、神ご自身が為し給うことはすべて正しいということである。従って、神の意志である十戒に従うことは、我々が神の義に従うことである。我々自身が正しい状態にあるのではなく、神が命じ給う言葉が我々を正しい状態に為し給う。神の命令の言葉が「義」であるがゆえに、我々は「義」に従って生きることができる。「義」は我々から生じることはない。あくまで、神が生じさせ給う。それゆえに、イエスはおっしゃっている。「義を飢え渇き求めている者たち」が「幸いな者たち」であると。この人たちは、「義」を与えてもらって、満腹になりたいと願い求めているということである。それを満たし給うのは神である。マルティン・ルターが求め続けて、ようやく見出したのもこの「神の義」であった。
1483年11月10日に生まれたマルティン・ルターは、1501年18歳になる年にエルフルト大学に入学する。父は、彼が法律家になることを夢見ていた。1505年法学部に入り、法律家への道を歩み始めた矢先、シュトッテルンハイムにおいて落雷に遭う。そのとき彼は守護聖人「聖アンナ」に、修道士になることを誓った。その誓いを果たさなければならないと、アウグスティヌス穏修修道会戒律厳格派に入ったルターは、聖書を渡され、日々聖書を読み、戒律を守る生活に入った。落雷体験の際に誓ったことを、後に後悔しているが、そのときは彼にとって最善の道であると思えた。しかし、修道生活を厳格に守り続けても、彼に平安は与えられなかった。自分の力で平安を獲得しようとしていたからである。彼は、神の義を自分が実現しなければならないものと考えていたのである。神の義に従うということは、神の義である厳格な戒律をわたしが守ることであると考えていた。そのような生活の中では、魂の平安はいつまでも訪れなかった。
1508年、25歳の時、ヴィッテンベルク大学の教授となったルターは、1512年に神学博士となり、翌年より聖書を講義することになった。ルター30歳のときである。ルターは、聖書を講義するにあたって、原典からの釈義を行い、講義ノートを作成した。それまでは、ラテン語の聖書のみであったところから、原典のギリシア語とヘブライ語を使って講義することになったのである。この講義準備を通して、ルターは「神の義」を違うように理解し始める。それまで人間が実現すべき「義」と考えていた「神の義」。実現できていない人間を裁く「神の義」と理解していたところから、神が与えてくださる「義」として理解し始めるのである。受動的神の義の発見と言われるルターの転換点である。
具体的には、詩編31編2節にこうあったからである。「あなたの義において、わたしを救ってください」という言葉である。この言葉には、「あなたの義」つまり神の義によって救い給えと述べられている。神の義は、わたしの義を測る尺度、裁く義だと考えていたルターは行き詰まった。さらに講義を進めたが、再び詩編71編2節にこう出て来た。「あなたの義において、わたしを救い出してください」と。ここに至って、ようやくルターは「神の義」を神の贈り物、贈与だと認識するようになった。徳善義和はこう解説している。「ルターはそれを『詩編の記者はここでキリストを明瞭に言い表している』と捉えた」と。つまり、贈与としての「神の義」がキリストなのだとルターは認識したということである。ここから、ルターの新しい信仰理解が始まる。
神の義は裁く義でありながら、救う義であるという矛盾を解決する道がキリストだという信仰理解である。キリストは、我々人間に神から贈られた贈り物、贈与としての義、贈与としての幸いであるとルターは理解したのである。ルターはこの神の義の理解をもって、再び聖書を読み直し、釈義するようになった。これは、贈与として受け取った「神の義」によって、聖書を読み直す作業であった。それまで、聖書で「神の義」が現れてくると苦しくなっていたルターは、このときからはうれしくなったのである。「神の義」という言葉ツェダカーを見出す度に、キリストを見出したからであろう。贈与としての幸いを見出したからであろう。
イエスが群衆に語り給うた言葉、「義を飢え渇き求めている人」が「満腹にされるであろう」という言葉が指し示しているのもこのキリストそのものであり、満腹させられるまで神の義をいただくことだと言える。そのような人たちは、「霊に貧しい人たち」と言われている。貧しいことが不幸だと思うのは、富んでいる人たちである。何も持たないことが不幸だと思うのは、多くを持っている人たちである。何も持たないことは実は自由であり、幸いなのである。現代でも、野宿生活をしている人たちの中には、社会のしがらみから抜け出すためにその生活を選択している人たちがいるのも肯ける。何も持たない自由を生きることは、神からすべてをいただく自由である。後にルターは自分のことを「神の乞食」と呼んだ。神からすべてをいただいて生きて行くという意味である。神に乞い求め、何の資格もなくとも贈与される幸いを「神の乞食」と言ったのである。贈与とは、資格を問われないがゆえに贈与である。資格云々をもって獲得するものは贈与ではなく、成果や報酬である。神の義はあくまで神の贈与であって、我々が神の義に従って生きることができるようにしてくださる神の力なのである。それゆえに「霊に貧しい者たちは幸いな者たち」である。神が贈与し給うすべてを感謝していただくからである。天の御国、天の支配は彼らのものとして生じている。神が与え給うという神の支配の中に彼らが入っているからである。そして、彼らは自由である。人間たちに縛られていた世界から、神に守られる世界に入るからである。
イエスがここで語り給う言葉は、すべて受動態である。幸いな者たちとは、受動態で生きる者のことである。もちろんそれは、神に生かされて生きることである。自分の力で獲得し、自分で満たす人たちは、自分が満たしたものに縛られ、不自由になってしまう。どこにでも行けるのは、持たない者たちである。自由を得るために野宿生活を選択した人たちも、それだけでは不自由である。どこかに自らの住居を定めるしかないからである。しかし、「霊に貧しい者」は自由である。その人は、持っているものが失われても、再び神が与えてくださると信じることができるからである。与えられて、使用し、手放して、与えられる。この贈与の循環を生きるのが「霊に貧しい者」である。
イエスの周りに集まってきた人たちは、持たない人たちであった。しかし、彼らはイエスを追いかけてどこへでも行くことができた。彼らがイエスを追い求め、イエスの口が開かれ、イエスの口から恵みの言葉が溢れ出てくる。みことばによって、彼らは満腹にされ、飢え渇き求めていた「神の義」に満たされる。悲しみは慰められる。柔和さによって、奪われていた人たちが、地を相続する。奪われてもなお、神は新たに与えてくださると信じる。このような生を生きる人たちを幸いな人たちだとイエスは言う。それは贈与としての生を生きる人たちである。
本来、人間は神の贈与によって生きる者であった。罪を犯した我々は、自分で獲得する生によって自らと周りを縛る世界を造り出してしまった。この罪深い世界を贈与の幸いを生きる世界へと転換するために、神はキリストを与えてくださった。キリストの十字架と復活を通して開かれた新しい世界は、神が与え、満たしてくださる世界である。この世界を生きて行くために、キリストはご自身の体と血を我々に贈与し給う。何の功績もない我々にご自身を無償で与えてくださる。あなたのうちにキリストが生きてくださる幸いを感謝していただこう。あなたが贈与の幸いを生きる者とされますように。
祈ります。

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