「愛の中で」

2019年11月3日(全聖徒主日)
ヨハネによる福音書15章1節~17節

「もし、あなたがたがわたしのうちに留まっていて、わたしの語った言葉があなたがたのうちに留まっているならば、あなたがたが意志することをあなたがたが願い、それはあなたがたに生じるであろう」とイエスは言う。我々がイエスのうちに留まっているならば、我々の意志はイエスの意志と一つとなっているがゆえに、イエスの意志が我々に生じるということである。従って、互いに愛することもイエスの意志であるから、そのように生じる、我々に。ということである。
「互いを愛する」ことは、イエスの意志によって生じる。その意志を我々が受け取り、うちに留めているならばであるが。イエスの意志を受け取るのは、イエスのうちに留まることが必要だと、ぶどうの木と枝の関係をイエスは述べ給うた。枝は、ぶどうの木から必然的に栄養を受け取る。木と枝は一つである。木は枝に栄養を与え、枝は木と同じ性質になる。これが今日イエスがおっしゃっていることである。従って、我々がイエスの言葉を聞き、イエスの言葉を必然的に受け取っているならば、イエスの言葉の通りに我々に生じるということである。
イエスの言葉とはイエスの愛である。愛は言葉と同じように形を持たない。形を持たないが、形を作り出す。言葉が何事かを作り出すように、愛も何事かを作り出す。愛に従った事柄を作り出す。しかし、言葉を受け入れることは、わたしに都合の良い言葉だけを受け入れることではない。都合の悪い言葉もイエスの意志として愛することである。イエスの言葉すべてを愛さないならば、自分に都合の良いイエスを愛しているだけであって、自分が願うような利益をもたらさないイエスの言葉は棄て去る。そうであれば、イエスを受け入れるとは言えない。結局、イエスを棄て去るのである。そのような者は、枝ではない。枝として木に留まってはいない。それゆえに、実を結ぶことはないのである。
我々が今日祈りに覚えている聖徒たちは、ぶどうの木であるイエスに全面的に留まった者たちである。聖徒という言葉は、聖別された者という意味であり、聖なるものとして別けられたということである。使徒パウロや預言者エレミヤが言うように「母の胎にあるときから分けられた」ということ。それは、神のものとして分けられたという意味である。日常に使用されるものとは別にされたこと、この世に使用されるものとは別のものとして置かれたこと。それが聖別である。聖徒とは、自らの人生を神のものとして生きる人たちである。この世において、都合の良いことだけを神に求めたわけではない。都合の悪いことも神の意志として引き受けて生きた。それが聖徒である。我々が今日祈りに覚えているのはそのような人たちである。我々もまた、彼らと同じように生きる者として召されていることを覚えるために。
イエスは、みことばにおいて、我々に栄養を与えてくださる。イエスというぶどうの木と一つとなるようにとみことばを語ってくださる。この言葉を素直に、ありのままに受け取る者が聖徒である。聖徒とは死んだ後だけではなく、この世にあっても聖徒である。この世にあって、イエスの枝として生きていなければ、たとえ死んでもイエスの枝とはならない。この世の都合で物事を考え、自分が生きやすくなることをイエスに求める場合、そのようになったとしてもイエスに従うことはない。苦難を乗り越えたとしても、イエスに従うことはない。のど元過ぎれば熱さ忘れる。この世の利益を求めているだけだからである。イエスの枝として生きるということは、イエスと同じようにこの世の利益を求めず生きることである。それがイエスという木と一つとなって生きる枝である。それが聖徒である。如何に苦難を負ったとしても、死の床で神に感謝する者が聖徒である。イエスが十字架を負われたように、被る苦難を引き受けて受難として生きる者である。この生き方は、木であるイエスから受け取る生き方。実を結ぶことが必然となっている生き方。実を結ぶために生きるのではない。必然的に実をもたらす。そして、実を手放す。それがイエスというぶどうの木に留まっている者である。
我々罪人が、このようなイエスの生き方に従う者とされるために、イエスは十字架を負い給うた。この十字架が真実のぶどうの木。イエスの栄光は十字架だからである。「わたしが真実のぶどうの木として生きている」とあえてイエスが言うのは、そのためである。真実のぶどうの木に留まっている枝は、真実のぶどうの木と同じように生きるのだということである。イエスが苦難を引き受け、受難を生きたように、枝もまた受難を生きる。この生き方を通して、実をもたらす。聖徒は、その生き方を通して、イエスの十字架の真実を証しする。自らの人生を通して証しした十字架の真実を他の人にもたらす。それこそが、聖徒たちのもたらす実である。
この実を受け取る者もまた、聖徒である。その人は母の胎にあるときから、神によって分けられていた者である。それゆえに、必然的に最後までイエスの言葉を聞き、従って行く。分けられていない者は、苦難が訪れればすぐに逃げ出すであろう。洗礼を受けても、何も良いことがないと、もっと良いことが来るようなものに引かれていく。苦難が恵みであることを理解しない。それは彼らが神によって分けられていないからである。自分でイエスを選んだ者たちである。
父なる神が、枝を剪定すると言われているのは、真実の枝たちをこのような者たちから分けるためである。父が剪定するのは、初めから分けられていた枝を明らかにするためである。枝に似せてくっつこうとしている枝を取り除くことで、真実の枝が生きやすいようにしてくださる。その剪定は、苦難の贈与である。苦難が訪れれば、偽物の枝はすぐに離れてしまうからである。苦難が恵みであることを生きる力を与えるために、父は剪定し給う。その剪定を素直に受ける者は、苦難を負うであろうが、真実の枝として育まれていく。イエスの枝は真実の枝の苦難を知るように導かれていく。イエスと同じ受難を生きるように導かれていく。この導きを素直に受け取る者がイエスの枝である。
それが分かるのは、互いを愛することが必然的に生じるときである。枝同士が愛し合うときである。互いに苦難を引き受ける者として愛し合うときである。そのとき、イエスの弟子であることがこの世に証される。この証を生きた者たちが、今日我々が覚えている聖徒たち。真実のイエスの枝たちである。
この聖徒たちは、我々の教会だけではなく、地上に置かれた世々の教会の枝である。この世が生まれる前から、選び分けられていた教会。キリストの教会の枝である。その一人ひとりが、教会を形作ってきた枝である。この枝の一つとされていることを、我々は覚えて、世々の枝々から励ましを受け、我々もまた真実の枝として生きる力を神に願い求める。このような意志を起こし、実現し給うのは父なる神である。我々はイエスの愛に留まり、イエスの言葉は我々のうちに留まる。イエスの愛に満たされたイエスの言葉が我々のうちに留まって、我々をイエスのものとして形作ってくださる。
我々はイエスに選ばれた枝である。我々がイエスを選んだのではない。イエスが我々を選び、イエスの意志が実現するようにと我々を派遣してくださる。この世に生きる我々は、この世にあってイエスの枝として生きる。イエスと同じように、苦難を引き受ける者として生きる。聖徒として生きる。我々もまた聖徒である。あなたがたは聖徒である。イエスに選ばれた者。イエスの愛を受けている者。先に天に召された聖徒たちと共に、我々は今日の日を喜び祝おう。イエスという真実のぶどうの木に我々を留めてくださった神に感謝しよう。我々も真実の枝として成長できるように、神に祈り求めよう。
イエスは我々のはぐくみのために、ご自身の体と血を今日も与えてくださる。キリストが我々のうちに生きてくださるように、我々のうちにキリストが形作られますように、感謝していただこう。イエスの愛の中で、真実の枝として育まれていく者でありますように。
祈ります。

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