「たちまちの災い」

2019年11月10日(聖霊降臨後第22主日)
ルカによる福音書19章11節~27節

「神の国がたちまち現れることが気がかりであると考えていた」人々のためにイエスはこのたとえを語られた。イエスが語ったのはたちまちの災いについてのたとえである。たちまち現れるものは災いを招くことを教えるために。
このたとえは、マタイによる福音書25章のタラントのたとえと似ているが、ここでは敵への報復が最後に語られている。もちろん、忠実である者たちは救われるが、忠実でない者たちは滅びてしまう、たちまちの災いに巻き込まれて。しかし、この災いはこの世の在り方。神の国においては、このようなことはないはずである。むしろ、罪深い者であろうとも、ただ神を信頼する者は救われるのが神の国である。行いによってではなく、信仰によって神の国へ入る。如何に、この世で忠実であろうとも、所詮人間は罪深い者。そのような人間の行いによって救われるわけではなく、ただ神を信頼することだけが救いに不可欠である。この世の王が不忠実な者を滅ぼしたとしても、神に信頼する者は救われる。それが神の国である。そして、神の国はたちまち現れる、救いと共に。
たちまちの救いに思えても、たちまちの災いに転じることもあるのが、この世である。このような変化に対して右往左往することはない。むしろ、神のみに信頼して、為すべきことを為していれば良い。それが、神への忠実さをもって生きることである。この在り方は、この世においても支配者への忠実さとして現れるではあろう。しかし、神への信頼に基づいた忠実さは、支配者への忠実さとは別物である。王がどうあろうとも、為すべきことを為す。それだけが神への信頼であり、忠実さである。これをイエスは求めておられる。
この世で、たちまち王になるかも知れない高貴な人を阻止しようとした者たちは、王として迎えたくないと訴えた。彼らは、阻止するために使者を派遣した。しかし、ほんの少しの時間差で、その人は王として帰ってきた。そして、反対した者たちを殺害したのだ。覆そうとしても、たちまち滅びる。もちろん、彼らが自分たちの力で覆すことができると思っていたからである。たちまちは神の時間である。人間が時間を来たらせることはできない。自分たちで、救いのときを動かそうとした人たちは殺害されてしまった。それは、この世では当たり前のことである。この王に従う忠実な下僕たちであろうとも、王が失脚すれば同時に滅びてしまう。不忠実な下僕はそう考えていた。しかし、その弁えの中で生きている者は、神に忠実に従う者として生きて行く。その人は、決して揺さぶられることなく、ただ神に信頼している。それゆえに、この世に迎合することなく、この世に忠実に生きつつも、この世に取り込まれることはない。たとえ、神の国がたちまち来たとしても、うろたえることもない。常に神に忠実に生きているからである。これが、今日イエスが我々に語っておられることである。
では、この世において支配者に忠実であることが救われることなのであろうか。真実に神に忠実な者は、この世にあって忠実であろうとも、この世の権威によって生きてはいない。神の権威に従って生きている。それゆえに、この世の主人が王位を受けようと受けまいと変わりなく、与えられたものに忠実に生きている。それゆえに、どうにでもなり得るのである。それが、忠実であった下僕たちである。不忠実な下僕は、結局この世に捕らわれているがゆえに、王になることに反対する者がいることも考え、どっちに転んで良いように何もしなかった。それは神を信頼しない生き方である。真に神に忠実であることは、たちまちの災いにも耐え得る。彼らは何もしないで、様子見をするのではなく、為すべきことを為して生きるからである。そのような存在は、高貴な人が王になるかどうかに気がかりになることなく、自らの為すべきことを為す。誰が支配者であろうとも為すべきことを為す。支配者を選別して、この人になら忠実に従うが、あの人になら不忠実になるという人とは違う。そのような人は、結局この世に捕らわれている。そして、神に忠実にはなり得ず、外に投げ捨てられる。そうならないようにと、イエスはたとえを語り給うた。ここから、どう生きるかはそれぞれに委ねられている。神に忠実に生きるか、この世の様子を伺いながら人に取り入って生きるかである。
忠実な下僕と言われている人は、王になって帰ってこようとも、帰ってこなくとも与えられたことに忠実に生きた。為すべきことを為しただけであり、誰が王になろうとも構わなかった。様子見をした下僕は、結局様子見さえもできなかった。王になって帰ってきたのは、たちまちだったからである。様子見をしている者には、災いはたちまちに来たる。しかし、与えられたことに忠実である者には、たちまち王になって帰ってきた支配者があろうとも何も心配はない。彼らに与えられたムナが働いたからである。それだけである。だとすれば、たちまちが災いになるのは、やはり不忠実な、様子見の輩である。だからこそ、忠実に生きることが必要なのである。
不忠実な僕は、王になって帰ってこようと、王になれなかったとしても、どちらであろうと対応できるようにと、何もしなかった。そして、災いを招いてしまった。不忠実は、誰にであろうとも不忠実である。神に対しても不忠実である。たちまち神の国が来たることを気がかりだと思っていた人たちは、結局不忠実な下僕である。なぜなら、忠実な下僕はたちまち変化することなど気にもかけず、与えられたことにただ忠実に生きているからである。どっちが良いかを見極めようとして気がかりになっている人たちは、見極めることができれば忠実にも不忠実にもなり得ると思っている。そのような人は、結局忠実ではない。神に忠実であるということは、この世において如何なる状況に置かれようとも、ただ神に信頼して生きる。それができないのが、不忠実な輩である。
我々キリスト者は、神に忠実な者であって、この世に忠実なのではない。この世に忠実であるということは、この世に左右されることである。神に忠実であることは、この世で捨てられたとしても、神が顧みてくださると信頼していることである。そのような者は、この世にあっても来たるべき世にあっても神に忠実に生きる。それだけで十分である。
キリストは、十字架を負って神に忠実に生きた。このキリストに従うことが、神に忠実に生きることである。それゆえに、神に忠実であることは、この世に捨てられる危険を冒しつつも、究極的に危機を乗り越えることができる、キリストが十字架を負いつつも、復活させられたように。それゆえに、我々はたちまちの災いを恐れる必要はない。常に、神に信頼して生きているならば、我々を害するものは何もない。この幸いを生きるようにされていることを神に感謝しよう。キリストは、我々がキリストに従って、幸いを生きることができるようにと、十字架を負ってくださったのだ。だから、我々は右往左往する必要はない。我々の主はキリスト・イエスなのだから。
我々はキリストと同じ形に変えられ、キリストと同じように神に従う者とされる。キリストの言葉はあなたを造り替える力がある。あなたのために語り給うキリストは真実を語り、あなたの救いを実現してくださる。このお方に従って行こう。たちまちの災いは、あなたに及ぶことはない。あなたは神のもの、キリストのものなのだから。あなたを愛する神が、あなたをたちまちの救いへと導いてくださる。あなたは、このような者として生きることができるように召されているキリスト者なのだ。
ただ神に信頼し、神が与えてくださった働きを為していこう。そのための力も神は与えてくださっている。自分にはできないとうろたえる必要はない。求める者には必ず与えられる。探す者には必ず見出される。叩く者には必ず開かれる。神の世界は常にあなたに開かれているのだから。たちまちの災いではなく、永遠の救いを用意してくださっている神に信頼して生きて行こう。忠実な者として、揺らぐことなく生きる者に、たちまち救いは実現するのだから。祈ります。

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