「生きている者」

2019年11月17日(聖霊降臨後第23主日)
ルカによる福音書20章27節~40節

「しかし、神は死者たちのものではなく、むしろ生きている者たちのものとして存在している。なぜなら、すべての者は神に生きているから。」とイエスは言う。死者の復活については、モーセが報告しているが、それはまるで死んでしまった者としてのアブラハム、イサク、ヤコブの神と勘違いされるかも知れない言い方である。それゆえに、イエスは「しかし」と言う。「神は死者たちを復活させるために存在しておられる」だけではないと。そのように間違って受け取られることがないように、「しかし」とイエスは続ける。「神は死者たちのものとして存在しておられるのではなく、むしろ生きている者たちのものとして存在しておられる」と。
「生きている者たちのもの」とはどういうことであろうか。それをイエスは「すべての者たちは神に生きているから」と説明している。「すべての者たちが神に生きている」がゆえに、「生きている者たちのものとして神が存在しておられる」ことになると。
「生きている者たち」とは、死んだ者ではなく、今生きている者という現在形である。神については「現在生きている者たちのもの」であると言われているが、では復活させられる者たちはどうなのか。彼らの神でもあるはずではないか。そうである。従って、復活させられる死者たちもまた現在「神に生きている」存在だとイエスは言うのである。
しかし、ここで問題になっているレビラト婚への答えをイエスはこうおっしゃっていた。復活する者たちは「天使に等しい者であり、復活の子らとして存在している神の子らである」と。そして、この人たちは「死ぬことができない」がゆえに「結婚することはない」のだとおっしゃった。復活の子らは死ぬことができない人たちであるがゆえに、現在生きている者たちである。アブラハム、イサク、ヤコブも死ぬことができない者とされているがゆえに、現在生きているのであり、彼らの神は彼らを生かしているお方である。従って、復活は死ぬことができない生に移行することだというわけである。だから、死ぬ者には結婚が必要だが、死ぬことができない者には結婚は必要ではないとおっしゃったのである。ということは、復活させられないならば、生きている者ではないということである。
さらに言えば、復活させられる者であれば、この世にあっても結婚に捕らわれる必要はないことになる。子を産むことも、すべての人が産むわけではないからである。産むことになっている人が子を産むのであり、産むことになっていない人は子を産まないというだけである。これらの違いが神によって生じているとしても、すべての人に共通するのは「神に生きている」ということである。この点においてのみ、我々は「神の子」なのである。それゆえに、この世にあって、子を産まなければならないというわけではない。むしろ、我々が「神の子」として生きていることが重要なのである。それが「神に生きている者」である。
「神に」というギリシア語の与格、間接目的語は、「神に向かって」という意味と「神によって」という意味を持つ。神に向かって生きているということと、神によって生きていることの両方の意味をもってイエスは「すべての者は神に生きている」とおっしゃったのだ。すべての者は神によって生きているが、神に向かって生きていないならば、自分で生きていると思っているであろう。「神に生きる」ことは、わたしを造り、生かしてくださるお方に向かって生きることである。そのように生きている者が、イエスが言う「生きている者」であろう。そうであれば、「生きている者」はすべての者ではないということにならないであろうか。しかし、イエスは「すべての者は神に生きているから」とおっしゃるのだ。だとすれば、神によって生きていると信じない者も「神に生きている」のか。神に向かって生きていない者も「神に生きている」のか。そうであろう。
我々が信じていようといまいとに関わらず、神によって生きている。信じていなくとも神に向かって生きざるを得ない。なぜなら、最終的神の裁きの場に立つのはすべての者だからである。しかし、その裁きの場に立ったときに、信じていない者は復活を継続されることはないというだけである。すべての者が復活して、神の裁きの場に立つ。そこで、神による裁きが行われ、信じていない者は復活の生を生きることはないということである。ヨハネによる福音書5章29節ではこう言われている。「善を行った者はいのちの復活へと、悪を実行した者は裁きの復活へと出て来るのだ」と。すべての者が復活するが、いのちの復活に向かう者と裁きの復活に向かう者に分かれるということである。ただし、最後の裁きの場におけるまでは、何も決まってはいない。そうであれば、すべての者が復活を継続される可能性を持っている。それゆえに、「すべての者は神に生きている」のである、神の裁きの場に立つまでは。
しかし、それ以降の永遠の生、復活の生を生きるのは真実に「神に生きている」者である。その者たちは、この世において「自分の兄弟に種(子孫)を起こす」ことなど関わりなく生きている。自分の兄弟のために子孫を起こすということは、地上の生において家を守る思想である。神の国では、自分の家はない。あるのは神の家、神の民、神の子らだけである。地上の家や国家などにこだわることなく生きている者が、神の子らである。彼らは「神によって生きている」、「神に向かって生きている」。それだけが彼らの生きる目的である。子孫を残すことが生の目的ではないのだ。子孫は、地上に限定されたものである。天上では必要ない。イエスも結婚せず、子孫を残すこともなかった。しかし、イエスに従う神の子らが起こされた。イエスを長子とする神の家が興された。神の子らは、イエスに従う者として、「神に生きている」者たちである。それが「復活の子らとして生きている神の子ら」である。
我々が復活の生を思い描くときには、地上的価値観を捨てなければならない。だとすれば、復活の生は我々が思い描くことができないものである。我々が地上においてこだわっているものが何一つ価値のないものとなる。それが復活の生である。それゆえに、イエスは「自分を捨て、自分の十字架を取って、わたしに従いなさい」とおっしゃったのだ。復活の生を地上の生から考えることなど無意味であるとイエスはサドカイ派に示し給うた。我々の地上的価値を捨てるようにと勧め給うた。それが「神に生きる」ことだと語ってくださった。イエスが地上的栄光を捨てて、十字架を負い給うたのはそのためであった。我々が地上的価値を捨て、神に生きるために、イエスは先立ち給うた。イエスが「すべての者は神に生きている」とおっしゃるのは、生かしてくださる神に従うことを求めて生きよということである。
我々は誰一人として、神に生きていない者はいない。すべての者が神によって生きている。そして、神に向かって生きるように造られている。最後のときに至るまで、我々は神のもの。神は我々のもの。神に生きる者のために生きておられる神が、我々の神である。イエス・キリストは神の嫡子であり、我々が神の子らとなるために十字架を負ってくださった。この神と神の子イエス・キリストによって、我々は「神に生きる」者とされる。真実に「生きている者」として生きることができる。地上的事柄に捕らわれることなく、造られた者として神に向かって生きて行こう。神は、あなたを復活の生に導いてくださる。そのために、イエス・キリストはご自身の体と血を与え、我々のうちに生きてくださる。
イエス・キリストは、真実の神の子。我々のうちに生きてくださるキリストによって、我々もまた神の子として形作られて行く。自分を捨て、自分の十字架を取って、イエスに従う者として形作られて行く。感謝していただき、キリストに生きていただこう。我々が神の子として生きるために、ご自身を与え給うお方のいのちが我々のうちにはっきりと形作られるこの秘儀は、与る者を確実に神の子として形作ってくださる神の業である。この神に向かって生きて行こう、終わりの日に至るまで。
祈ります。

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