「忍耐する魂」

2019年11月24日(聖霊降臨後最終主日)
ルカによる福音書21章5節~19節

「あなたがたの忍耐において、あなたがたは獲得しなさい、あなたがたの魂を」とイエスは最後に言う。「忍耐」という言葉は、ヒュポモネーというギリシア語で「~の下に」という前置詞と「留まる」という動詞からできている。「忍耐」と訳されるが、意味としては「自分の場に固く踏み留まる」ことである。聖書的には、神が置き給うた場に留まるとも言える。置かれた場に、固く踏み留まることにおいて、獲得されるのが「魂」だとイエスはおっしゃっている。では、自分の場とそうではない場とがあるのだろうか。自分の場は自分で選んだ場ではない。神が置き給うた場である。自分で選んだ場は自分の場ではない。
我々は自分が今いる場を自分が選んだ場だと思いがちである。自分が選んでそこにいると思っている。しかし、自分が選んでいるわけではなく、常に神が置き給うのである。その場が移動したとしても、神が置き給うたという出来事は変わりなくある。ただ空間的場所を移動しただけであって、神の置き給う行為は変化してはいない。神置き給う行為としての自分の場に固く踏み留まることがここで言われているヒュポモネー「忍耐」なのである。
この踏み留まり「忍耐」において、「魂」を獲得することができるとイエスは言う。ということは、我々は魂を失っている存在であり、失っていることに気づいていないということになる。我々は原罪ゆえに魂を喪失した存在なのである。その「魂」は、神が創造の始めに我々の鼻に吹き入れた「いのちの息」によって生きるようになった「生ける魂」ネフェシュ・ハーヤーである。我々は、神の息によって「生ける魂」となったにも関わらず、自分で生きると思い上がり、罪を犯した。そして、「生ける魂」を見失った。神の息を見失った。神のいのちを見失った。それが我々原罪を抱えた人間である。
イエスはこの「生ける魂」の回復を「獲得」と言うのだろうか。見失っていたのだから再び手に入れるのである「忍耐において」。魂は忍耐において回復される。とすれば、我々が「忍耐する」ことができるならば「生ける魂」を回復することができる。しかし、我々人間は「忍耐」できないものである。ペトロが「赦し」について「何回まで」とイエスに問うたように、「忍耐」についても「いつまで」と問うからである。イエスがここで語っておられるのはただ「忍耐において」だけであって、いつまで忍耐すれば良いのかは語られない。「生ける魂」の回復までであれば、最後の審判までということになる。そうであれば、我々はこれから後の人生すべてをかけて、忍耐すべきなのである。
この忍耐は、どのような忍耐かと言えば、迫害や裏切り、殺害、憎しみに対する忍耐である。我々は忍耐の結果をすぐに求めてしまう。いっときの迫害であれば良いが、永遠に続く迫害に耐え得るであろうか。いっときの裏切りに対しても、「お前が裏切ったことは一生忘れないぞ」と思ってしまう。ときどき思い出しては恨む。憎しみに燃える。いっときの殺害はもはや取り戻し得ないいのちを失う。憎しみも解かれることなく、永遠に続くように思える。一人取り残された者として生きて行かなければならない。それでも忍耐すべきなのか。イエスはそうだと言う。我々にこのような忍耐が可能なのであろうか。可能ではないと思える。
我々は忍耐できなかった。それゆえに罪を犯した。原罪が宿っているこの肉の体では、我々は忍耐などできないのだ。原罪そのものが「お前は忍耐などできない」と叫んでいる。我々のうちで叫んでいる。迫害する者が変わるはずはない。裏切る者が変わるはずはない。殺害する者が変わるはずはない。憎しみが変わるはずはない。それらは永遠に続く。我々のうちにある憎しみも永遠に続く。変わり得ない我々人間は永遠に迫害し、殺害し、裏切り、憎しみに燃える。これが原罪の働きである。
イエスは、迫害がなくなるとは言わない。殺害がなくなるとも言わない。裏切りも、憎しみもなくなりはしない。永遠に続くであろう。しかし、忍耐せよとイエスは言う。変わるから、なくなるから、それまで忍耐せよとは言わない。ただ忍耐せよと言う。それは理不尽ではないか。忍耐して、相手が変わるのだとすれば、忍耐も耐え甲斐がある。しかし、変わらないとすれば、虚しい忍耐である。そう、イエスは虚しい忍耐を為せとおっしゃるのだ。あなたが忍耐したからと言って、相手が変わることはない。あなたが忍耐したからと言って、迫害がなくなるわけではない。あなたが忍耐したからと言って、殺害されないわけではない。裏切りも憎しみも続くであろう。しかし、「あなたがたの忍耐において、あなたがたは獲得しなさい、あなたがたの魂を」とイエスは言う。虚しく忍耐せよと言う。それが真実に神に信頼する生き方、信仰者の生き方だとおっしゃる。
確かに、わたしの忍耐において、他者が変わり、迫害しない人になるならば、わたしは他者を変える力を持っていることになる。人間を変えることは神以外には可能ではない。人間の忍耐が人間を変えることができるなどと思い上がることこそ罪である。我々がいっとき忍耐したかのように思っても、すぐにその結果が出なければ、「どれだけ忍耐しているか、あいつには分からないのか」と我々は怒り始める。そして、結局忍耐できない者として生きる。魂を見失った者として生きる。神の息を失って生きる。それは死んでいることなのだとイエスはおっしゃっているのだ。生きるということは、忍耐することなのだとおっしゃっているのだ。
我々人間が忍耐できないことは承知の上で、イエスは忍耐せよと言う。できない者である我々に忍耐せよと言う。これは理不尽というよりも神の意志なのだ。神の意志の絶対的要求なのだ。神が我々に忍耐し続けておられるように、神の意志の絶対的要求が忍耐なのだ。神の忍耐に従って、主イエスも我々人間に忍耐してくださった。裏切られ、憎まれ、蔑まれ、打ちのめされ、肉を裂かれ、十字架において殺害された。死に至るまで、神の意志に従って忍耐を生きてくださったお方が言う、「あなたがたの忍耐において、あなたがたは獲得せよ、あなたがたの魂を」と。「わたしがあなたがたのために獲得しておいたあなたがたの魂を獲得せよ」とおっしゃっているかのようである。あなたがたが忍耐できないことを百も承知で、わたしはあなたがたに忍耐し続けた。あなたがたの魂を獲得するために、忍耐し続けた。このわたしを信じる者は、わたしと同じように忍耐するであろう。わたしがあなたがたのうちに働いて忍耐を生きるようにしてあげよう。さあ、わたしを信じなさい。わたしが殺害されてもなお、忍耐し続けた結果、神はわたしを復活させ給うたではないか。このわたしを見なさい。わたしがわたしの魂を獲得し生きたように、あなたがたもそう生きることができるのだ。ただ、わたしを信じることによって、生きることができるのだ。見失っていた神の息を、いのちの息を改めて受け、生ける魂として復活するのだ。わたしと共に死んだ者は、わたしと共に復活する。わたしと共に忍耐した者は、わたしと共に魂を獲得する。イエスはこうおっしゃっているのだ。あなたがたに悪しきことも、証の機会となり、証しする力もわたしが与えるとおっしゃるイエスが、忍耐せよと言うのだ。
確かに忍耐できなかったわたしである。しかし、イエスを信じるならば、再び忍耐する魂として生きることができる。イエスを信じるならば、再び生ける魂を見出すことができる。イエスを信じるならば、再びいのちの息があなたの鼻に吹き込まれる。あなたはネフェシュ・ハーヤー生ける魂として生きることができる。イエスを信じる者にはすべてが可能である。いっとき、見失ったとしても、イエスの言葉によって、目を開かれ、心を開かれ、再び自分の場に固く踏み留まることができる。イエスの力によって踏み留まることができる。最後の日に至るまで、イエスは我々と共にいてくださる。見捨てることなく、支えてくださる。あなたの力であるこのお方を信じて、歩み続けよう、あなたの魂の獲得に向かう忍耐する魂として。神の絶対的要求があなたを忍耐する魂としてくださる。
祈ります。

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