「くびきを負う息子」

2019年12月1日(待降節第1主日)
マタイによる福音書21章1節~11節

「しかし、このことは生じてしまっている、預言者を通して語られたことが満たされるために」と言われ、ゼカリヤ書9章9節以降が引用されている。そこではこう言われている。「見よ、あなたの王があなたにやって来る。柔和で、子ロバの上に乗って、くびきを負う者の息子として」と。ここで「荷を負うロバの子」と訳されている言葉の原意は「くびきを負う」である。くびきを負う者の息子の上に乗る王は、くびきを負う者としてやって来る。確かにイエス・キリストは「くびきを負う者の息子」。父なる神が人間に対するくびきを負い、息子を遣わした。息子であるイエス・キリストは父と同じくびきを負う。人間に対するくびきを負う。
そのくびきは、人間が放り出したもの。神を捨て、自分たち自身を神とした人間。捨てられたくびきをご自身が負い給う神。そのお方の息子が父に従い、負うくびきが十字架である。待降節第1主日に読まれるこの聖書が指し示しているのは、イエス・キリストの降誕の出来事は、人間によって捨てられたくびきを神が負い、その息子を派遣した出来事だということである。クリスマスは、くびきを負う息子によって、聖書が満たされる出来事。聖書が、神の言葉が満たされるために、イエス・キリストは遣わされ、十字架を負い給うために生まれてくださった。クリスマスが十字架の道の始まりである。
神の言葉が満たされるとは、神が語られた通りに言葉が出来事となるということ。イエス・キリストがくびきを負う息子としての出来事を生きてくださる。神の言葉通りの出来事が生じる。これがクリスマスから始まった神の出来事。イエス・キリストはくびきを負う息子。このお方によって、我々は神の言葉の通りにすべてが生じていくことを知る。神の言葉は虚しくないことを知る。神の言葉が力ある言葉であることを知る。神の言葉が創造する言葉であることを知る。神の言葉が過つことなくすべてを正しく導くことを知る。これがイエス・キリストがこの世に来られるクリスマスの意義である。
しかし、人々は自分の思いに従ってイエスを迎えた。「ダビデの息子」として迎えた。イエスご自身がマタイによる福音書22章45節でこうおっしゃっている。「もし、ダビデが彼を主と呼んでいるのであれば、どうして彼(キリスト)が彼(ダビデ)の息子であろうか」と。これはイエスがファリサイ人たちに「キリストは誰の子だとあなたがたは考えているか」と問うて、彼らが「ダビデの子」と答えたことに対して、おっしゃった言葉である。イエスは、聖書に基づいて「キリストはダビデの子ではない」と論証した。従って、エルサレム入城において人々が叫んでいる「ダビデの子にホサナ」という叫びをイエスは悲しく聞いていたことであろう。しかし、人々の間違った叫びを制止することはなかった。叫びたい者には叫ばせておくしかない。彼らが間違いを指摘されても、認めることはないであろうから。そして、キリストは最終的に律法学者、祭司長たちによって十字架に架けられる。この人たちもキリストはダビデの子だと思っていた。結局、ダビデの子ではないイエスが来て、人々の思いは覆されてしまった。律法学者たちはダビデの子であるしるしを求めたが、イエスは何も示し給わなかった。ヨナのしるし以外は示されないであろうともおっしゃった。
キリストはダビデの子ではない。キリストは神の子である。人間的思いは覆されなければならない。イエスはそのために遣わされた。誰も父なる神に従うことなく、自分の思いに従って進んで行く。すべてが進んで行く。そのただ中で、神はくびきを負う息子を遣わした。人間の思いを覆すロバの子に乗って入城するイエスは、この世の人間の思いが実現することはないと告げている。馬に乗る、勇ましい王ではない。剣を帯びた王でもない。ロバの子に乗って、低く、柔和に入城する。このお方がメシアだとは誰も思わない。キリストだとは誰も認めない。そのようなお方として、神のくびきを負い給うたのがイエス・キリストである。このキリストの姿に現れているのは十字架の神学である。
マルティン・ルターは、栄光の神学ではなく、十字架の神学を唱えた。ハイデルベルク討論において、ルターの十字架の神学は確立された。「十字架の神学なしには、最善のものが最悪の仕方で誤用される」とルターは言った。それゆえに、神の背面を見よと言う。「目に見える神の本質と神が見られる背面が、受難と十字架によって知られると解する者は、神学者と呼ばれるに値する」とも言っている。
イエスは、ロバの子、くびきを負う者の息子の上に乗り、エルサレムに入った。それは、雄々しい入城ではなく、情けない入城。たくましい姿ではなく、弱々しい姿。栄光の馬上にはキリストはいない。低きロバの上にキリストはいる。我々人間が蔑むような姿でエルサレムに入るイエス。このお方は、蔑まれ、捨てられ、殺害されるくびきを負い給う。人々が褒め讃えるダビデの子ではない。人々が期待する王ではない。人々が喜ぶ救いではない。神が喜び給う救い。神の喜びが満たされる救い。神に従う王。くびきを負う王。それこそが真実に王である。人々を従える王ではない。人々に従う王。人々のためにくびきを負う王。人々が神と和解するためにくびきを負う王。犠牲として献げられる王。聖なる者とは、神に献げられる者。殺害されることを通して、殺害の犠牲を通して、神に自らを献げる者。すべての者の和解のために献げる体。このお方こそがキリスト、メシア、救い主である。
栄光の神の背面に見える、受難と十字架の神。イエス・キリストはこのようなお方として、エルサレムに向かった。人々は理解せず、イエスを「ダビデの子」と呼んだ。「預言者イエス」と言った。人々から捨てられるために、この世に生まれ給うイエス。クリスマスの主は、その生まれの初めからくびきを負って生まれた。理解されない者として生まれた。善きものをもたらすお方が貧しき者として生まれた。ルターが言うとおり、「栄光の神学者は、悪を善と言い、善を悪と言う。十字架の神学者は、事態をそれが現にあるとおりに語る」。ロバに乗る王は栄光の王ではないと認める。ダビデの子でもないと認める。ダビデの子だから、主の名によって来たるのだとは言わない。ありのままに受け入れる。黙って従う。十字架の神学者は、くびきを負うお方を知っている。そのお方に従って、神によって負わされたものを負う。こうして、預言者を通して語られた神の言葉が一人ひとりのうちに満たされ、それぞれを神に従う者とする。それがイエス・キリスト。神の息子。くびきを負う息子。神の言葉を満たす息子。クリスマスの主。
待降節を迎えた我々は、キリストが負い給うくびきに心を向け、くびきを負い給うキリストを迎える備えを為す。我々の心も低くされなければ、お迎えできない。自らの罪を弾劾する者がキリストに依り頼むキリスト者である。ルターはこう言っている。「人間は自分自身のものしか追求できず、すべてに優って自分自身を愛することしかできない。これがあらゆる悪徳の総計である」と。このような自己愛から解放されるためには、自己を憎み、自己を踏み越えて行かなければならない。こうして初めて「真の、純粋な自己愛」が成立するとルターは言う。同様のことは、ローマの信徒への手紙9章3節の講解でも言われている。「愛するということは自己自身を憎み、弾劾し、災いを願うことである。・・・・こういう仕方で自分自身を愛する人は真に自分自身を愛している。なぜなら自分自身においてではなく、神において自分を愛しているからである。つまり、すべての罪人に向かって、したがってわたしたちすべてに向かって憎み、弾劾し、災いを願っている神の意志に一致して自分を愛しているからである」と。
キリストが負い給うたくびきは、我々の弾劾のくびき。キリストが差し出し給うた体と流された血によって、我々は救われた。苦き汗と尊き血を流し給うたキリストは、我々を救う神の賜物である。このお方の体と血を、自分自身の口と喉で受ける聖餐を通して、我々はキリストを迎え入れる。我々のうちに入り来たり給うキリストをお迎えしよう、真実をもってクリスマスを迎えるために。
祈ります。

Comments are closed.