「片付けるために」

2019年12月8日(待降節第2主日)
マタイによる福音書3章1節~12節

「彼は集めるであろう、彼の麦を、片付ける場所へ」と言われている。「倉」と訳されている言葉は「片付ける場所」という意味である。片付けるべき場所が相応しいところである。その場所が「倉」と言われる。この言葉はアポテーケーというギリシア語で、アポ「~から」とティセーミ「置く」という言葉からできている。あるところから相応しい場所へ置くことを意味している。倉は片付ける場所である。それは、正しい場所に置くことである。正しい場所に置かれるものは「彼の麦」である。集めるお方のものである「麦」が相応しい場所に置かれることが、最後の審判の際に行われると言われている。従って、イエスによる洗礼を受けるということは、それぞれが相応しい場所に置かれて、神のために用いられるように守られるということである。これを行うのはキリストであり、洗礼者ヨハネではないとヨハネは言う。片付けるのは自分ではないのだとヨハネは言う。片付けるための備えはヨハネが行うであろうが、最終的な片付けはキリストが行う。では、ヨハネが備えることは、どのように用いられるのであろうか。
ヨハネは、悔い改めへの洗礼を宣教していた。イエスと同じ宣教の言葉を語って、洗礼を宣教していた。しかし、洗礼だけを受けに来たファリサイ派の人たちやサドカイ派の人たちに対しては、「悔い改めの相応しい実を結べ」と言う。人間に相応しい実が結べるのであろうか。ヨハネはそう考えているのであろうか。いや、相応しい実は神が結ばせ給う実である。ヨハネは、神に結ばせていただくための備えを為せと言っているのである。その備えは、自分で結ぶのではないことを受け入れるということである。ファリサイ派やサドカイ派は、自分たちが結べると思い上がり、それに加えて、洗礼を受けることも付け加えておこうと考えてやって来たということである。それを見抜いたヨハネが、彼らを叱責する。「神は、これらの石たちから、アブラハムの子孫を起こすことが可能である」と。つまり、神が起こすのであって、あなたがたが起き上がるのではないということである。彼らは、自分たちが正しい人間になることができ、正しく生きていると思っていた。それを悔い改めなければ、相応しい実は結べない。
悔い改めとは、心の向きを方向転換することである。人間の力に向かっていた方向を転換して、神の力に信頼する方向へ向かうことである。ファリサイ派やサドカイ派がそのような方向転換を為したわけではない。むしろ、洗礼さえも自分たちの正しさを証明する手段にしようとヨハネの許に来た。ヨハネはそれを見抜き、「悔い改めに相応しい実を結べ」と言う。つまり、あなたがたは自分では相応しい実を結ぶことはできないことを認めよとヨハネは言ったのである。神は、これらの石たちから、アブラハムの子孫を起こすことが可能なお方なのだから、そのお方に信頼する方向に転換せよと言うのである。それはまた、相応しい場所に置き給うお方に委ねることである。片付けるのは、神であると認めることである。彼らは自分が片付けると思っていた。それゆえに、罪人たちは自分で片付けることができないから救われないと思っていた。その思考こそが罪である。彼らが如何に正しいことを行っても、どれだけ善を行っても、罪から抜け出せていないことを彼らは理解していなかった。彼らには神の力は必要なかった。この生き方が罪である。そこから抜け出すには、どうしたら良いのか。
ヨハネが罪を告白するように勧めていたのは、抜け出す備えのためである。罪を告白することで、神の憐れみを乞い願うところに立つようにされる。ヨハネが人間に与えることができるのは、律法である。律法によって、一人ひとりが罪を知るためである。ヨハネは福音を与えることはできない。福音はキリストによって来たるからである。ヨハネは律法までであり、福音はイエス・キリストによって来たる。この区別に従って、ヨハネはキリストを「わたしの後から来る方は、わたしより強い方である」と言う。そのお方が、悔い改めの実をもたらし、相応しい実を片付けるお方だと言う。キリストは、ご自分の力に包まれてもたらされる実を、片付ける場所へ集める。相応しい場所へ集める。その働きが「聖なる霊と火における洗礼」と言われている。「聖なる霊と火のうちで、あなたがたを沈める」という言葉が示しているのは、霊に関わる沈めである。
霊に関わる沈めは、霊的な沈めであり、我々人間の身体的沈めではなく、我々人間存在の全体的沈めである。我々の人間的在り方全体が全く死なしめられる沈めである。我々の在り方全体が火によって浄められる沈めである。神のものとして実を結ぶための沈めである。それが、我々キリスト者の洗礼であり、洗礼に与ることで、我々は神のものとして生きることになる。それが、イエスによる片付けである。しかし、洗礼に与った後でも、我々のうちには罪が住んでいる。キリストによって抑えられているとは言え、我々のうちには罪が残っている。これが完全に焼き払われるときが、最後の審判である。それまでは、我々は息を吹き返そうとする罪との戦いを強いられる。その戦いの力も神によって与えられる。礼拝を通して、神の言に与ることによって与えられる。キリストの体と血に与ることによって、神の力に満たされる。これを繰り返しつつ、終わりの日に向かって歩むのである。それゆえに、礼拝から遠ざかることによって、片付けてくださるお方の働きから遠ざかることになる。人間的に生きることになると、途端に我々の内側は散らかってしまう。混乱に陥ってしまう。目の前のものに捕らわれて、終わりの日に向かう道を見失ってしまう。我々は、礼拝において、キリストの言葉による「片付け」に与っているのである。我々の存在全体が、相応しいものとして片付けられるように働いてくださるのはキリストである。最終的片付けが行われるまで、我々はキリストによって日々整理され、整えられていく。日々片付けなければ、散乱してしまう我々自身に気をつけていなければならない。そうすることこそが、我々が悔い改めに相応しい実を結ぶことなのである。
キリストは片付けるために来られた。我々がキリストの麦として集められるために来られた。キリストの麦であることは、我々からは生じない。キリストが結ばせてくださる。神が起こし給う信仰によって、神が結ばせてくださる。神の働きに信頼する信仰こそが、善き働きの主体なのである。あなたに与えられている信仰は、神のもの。神のものであるがゆえに、神の麦を結ぶ。神のものであるがゆえに、相応しいところへ集められる。神のものであるがゆえに、善きものである。罪が残っているとしても善きものである。悔い改めに相応しい実を結ばせてくださるお方に信頼して生きる者は、必ず救われる。必ず受け入れられる。必ず集められる、片付ける場所へ。あなたがそのようになる者とされるために、キリストは来てくださった。あなたのそばに来てくださった。あなたのそばにいてくださる。
あなたは罪を自覚し、罪から抜け出したいと願い、神の力を願い求めた。それゆえに、あなたは神の力によって救われた。そして、救われ続けていく、礼拝を通して、永遠に。それを可能としてくださるお方に信頼して歩み続けよう。キリストが来てくださるのは、混乱した世界を整え、相応しいところに相応しいものを置くためである。クリスマスはその始まり。クリスマスを待ち望む我々は、我々の片付けのために来給うキリストを迎える備えを為していこう。その備えは、洗礼者ヨハネに従った備え。我々自身には力がないことを受け入れること。我々自身には悪しか行い得ないことを認めること。我々自身では救われることはできないことを知ること。
あなたよりも力あるお方がお出でになる。あなたを片付けるためにお出でになる。あなたを相応しい者とするために来てくださるキリストをお迎えしよう。あなたの心に、あなたの生活に、あなたの人生に。あなたのすべてがキリストに満たされ、キリストがそばにいてくださる生涯を生きていくことができますように。
祈ります。

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