「恐れのそばに」

2019年12月19日(待降節第3主日)
マタイによる福音書1章18節~23節

「恐れるな、そばに取ることを、マリアを、あなたの妻として」と天使はヨセフに言う。「そばに取る」という言葉はパラランバノーというギリシア語である。パラ「そばに」、ランバノー「取る」という言葉である。自分のそばに迎え入れることであり、自分もその人のそばにいることである。
ヨセフは恐れていた。彼が義人と言われていたからである。「彼女の夫ヨセフは、義人であり、彼女が暴露されることを選択的に意志せず、密かに彼女を去らせることを意志した」と言われている。義人と言われていたがゆえに、義人であることを守ろうとしたのか。マリアの胎の実が、聖霊によって生じたことが暴露されることを恐れたのは何故か。誰も信じないと思ったのか。確かに、誰も信じないであろう。暴露されれば、マリアが不貞を働いたということになるであろうことを熟慮して決断した、彼女を去らせることを。それが本当に良いことなのか。独りになったマリアがこの後どのように生きて行くのか。胎の子はどうなるのかと熟慮したのであろうか。自分の義を守ることだけを考えたのではないのか。あるいは、ヨセフもマリアの告白を信じなかったのかも知れない。そうでなければ、天使が現れる必要もなかったのだ。天使は、ヨセフの恐れを取り除くために現れたのだから。
ヨセフが罪人として蔑まれていたのであれば、さらに何か罵られることが起ころうとも、大した問題ではなかったであろう。しかし、彼は義人として認められていた。それゆえに、自分を守ろうとする思考が働いたのではないのか。認められている者が失敗したことを暴露されることを恐れるのは当然である。暴露されることは恐ろしい。自分が認められなくなることが恐ろしい。自分が愚か者と言われることが恐ろしい。周りから蔑まれることが恐ろしい。誰も見向きもしなくなることが恐ろしい。このような恐れは、自分が何者でもなくなる恐れである。自分が何者かであると認めてくれるのは人間であると考えているからである。
神の前では、皆何者でもないというところに立つのが信仰者である。何者でもないのだから、馬鹿にされようと、蔑まれようと、何も変わらない。失敗もする。間違いも犯す。人を傷つけることもある。正しく生きようとしても、罪を犯してしまう。「善を行って罪を犯す」とルターが言ったように、それが罪人である。このような自らの罪人性を受け入れている者は、神に祈る。神だけがわたしを判別する主体だと信じている。神の前に裸で立つしかないと信じている。それが信仰者である。しかし、ヨセフは義人であって、人から認められなくなることを恐れた。それゆえに、天使は言うのだ。「恐れるな、そばに取ることを、マリアを、あなたの妻として」と。
「そばに取る」ことによって、ヨセフとマリアは互いにそばにいることになる。マリアは最悪の場合、石打の刑になるであろう。マリアも恐れを感じていたであろう。ヨセフが「そばに取る」ことによって、ヨセフの恐れ、マリアの恐れ、二つの恐れが共にいることになる。しかし、その恐れのそばに神は共にいてくださると天使は言うのである。それが「インマヌエル」だとイザヤが預言していた。ヨセフとマリアの恐れのそばに、共にいてくださるのはマリアの胎の子、イエス・キリスト、インマヌエルである。
イエスは、その誕生のときから、「恐れのそばに」いるお方であった。人間的な恐れのそばにいるお方であった。人間的な恐れが、神の前での畏れに変えられるために、そばにいるお方であった。ヨセフは、天使の言葉を聞くことによって、神の前での畏れへと変えられた。人間を恐れていたヨセフは、マリアをそばに取ることによって、恐怖から畏怖へと転換させられた。恐れのそばに必ず神は共にいてくださる。恐れを受け入れる者のそばにいてくださる。神は「恐れのそばに」おられる神である。救い主は「恐れのそばに」生まれるイエスである。
恐れは、人間であれば誰でも感じるもの。人間にしか心が向いていないから感じる恐れ。この恐れを克服すること、この恐れが神への畏れへと変えられること、それがインマヌエルであるイエスがその生涯に負った働きである。
人間の恐れの最大のものは死である。人間は死を恐れるがゆえに、罪に支配される。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一15章56節で言うように、「死のトゲは罪」なのである。このトゲと訳される言葉はケントロンというギリシア語で、家畜などを追い立てる突き棒のことである。パウロが言うのは、「罪」が我々を「死」の方へと追い立てる突き棒だということである。死を恐れるがゆえに、回避しようとして罪を犯し、死に追いやられる人間。この「死」を足の下に踏みつけるキリストの最終的な勝利によって、死は無効化され、トゲである罪は働かなくなる。キリストの十字架と復活によって、死はもはや恐れるものではなくなるからである。
ヨセフの人間的な恐れも、死の恐れ。死のトゲである罪が彼を追い立てて、死へと向かわせようとしていた。そのとき、天使が現れたのだ。天からの知らせによって、ヨセフは恐れのそばに共にいてくださる神を知った。神が共にいてくださることで、彼はマリアをそばに取り、そばにいることを選択することができたのである。神は、恐れを迎え入れるように、ヨセフに働いた。人間的恐れが神への畏れに変えられるためには、恐れから逃げていてはならない。人間的恐れがまずそばに取られなければならない。そばに取られた恐れは、その人のそばにある恐れとして、神への畏れを喚起する。神の畏れに満たされるとき、人間は罪を犯すことなく、神の意志を生きる者へと変えられていく。それが、ヨセフに起こったことである。
イエスの誕生には、ヨセフが恐れをそばに取ることが必要だった。その子イエスが、人間の恐れをそばに取るお方として生まれるために、まずヨセフがマリアをそばに取るように促された。これが神の意志。これが神の予知と予定。神の意志の絶対的必然性である。マリアをそばに取ることを否定したヨセフが、そばに取る者に変えられた。神の言葉の力がヨセフを包んだ。神の言葉がヨセフの恐れを包んだ。神の言葉がヨセフの恐れを神への畏れへと変えた。イエス・キリストはこの男の息子として生まれたのである。
義人であることを否定されても良いとヨセフはマリアをそばに取った。義人であるか否かは、神の前の出来事であると、恐れをそばに取ることを選択した。恐れはもはや彼を支配することはない。マリアが、そしてイエスが、彼のそばにいる。彼のそばに神がおられる。我々の恐れのそばで、神はすべてを支配しておられる。「恐れるな」と天使が言う如く、恐れを恐れていては何も始まらない。新しいことは始まらない。新しい世界は開かれない。恐れは必ず畏怖へと変えられていく。神を畏れる者には何も恐れるものはない。死さえも恐れることはない。わたしという魂のそばにいてくださる神、インマヌエルがおられるのだから。我々の恐れを足の下に踏みつけてくださる救い主がおられる。我々の罪を働かなくしてくださるキリストがおられる。このお方のそばに取られた者として、我々キリスト者は生きて行くのである。わたしはあなたを決して見捨てないとおっしゃるお方が我らの主、我らの神、我らの救い主。クリスマスに生まれるお方は、我々の死の無効化のために生まれてくださる。ご自身の死を通して、死を働かなくしてくださる。
このお方の体と血に与る者は、このお方と一つとされ、このお方のうちに生きる者とされ、このお方があなたのうちに生きてくださる。あなたを害するものは何もない。あなたを死へと追い立てる罪は働かなくされる。あなたは小さなキリストとして生きて行く。ヨセフが小さなキリストとして、マリアをそばに取ったように、あなたの他者をそばに取る者として生きるようにされる。今日もキリストの体と血に与り、わたしのうちにキリストをお迎えしよう。
クリスマスを待ち望む我らのうちに入り来たり給うお方を喜び迎えよう。あなたの救い、あなたの力、あなたの希望を迎え入れよう、天の力に満たされるために。
祈ります。

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