「畏れと憐れみ」

2019年12月22日(待降節第4主日)
ルカによる福音書1章46節~55節

「彼の憐れみは、世々に、彼を畏れる者たちに」とマリアは歌う。「畏れ」と「憐れみ」はつながっている。神を畏れ、神の前にひれ伏す者を神の憐れみが包む。神を畏れる者は、憐れみに包まれている。神の憐れみを信じている。それゆえに、人間を恐れる必要はない。神だけがすべてをご意志に従って為し給うと信じる者は、神の愛を信じている。神のご意志が神の愛であることを知っている。神にすべてを委ねて生きる。このように生きることを可能とされた喜びをマリアは歌っている。
彼女も人間を恐れていた。ヨセフと同じように人間から排除されることを恐れていた。人間の中に、自分の居場所がなくなることを恐れていた。人間たちがすべてを決定することを恐れていた。しかし、神が彼女に大いなることを為し給うた。マリアに神を信頼する心を起こし給うた。それが、マリアが歌う「大いなること」。もちろん、マリアがイエスを生むようにされたこと、聖霊による身ごもりが「大いなること」である。しかし、その出来事は彼女につらい状況を与えるものであった。つらさを背負わなければならない。逃げ出したい思いに満たされていた彼女に、天使は言った。「神からのすべての語られた言葉は不可能ではない」と。マリアはこの天使の言葉を聞いて、神が語られた言葉、神の意志には不可能はないと知った。わたしに起こったことはつらい現実を生み出すかも知れない。しかし、そこに神の可能が働いている。それゆえに、わたしに起こるつらい現実は悪しく働くことはないと彼女は信じた。この信仰を与えられたことで、マリアはイエスを懐胎するだけではなく、その後に起こることもすべて神の可能に含まれていると信じた。だから、何も恐れる必要はない。マリアは雄々しく生きて行くことができる者とされた。この信仰が、マリアの上に起こった神の出来事、「大いなること」である。
マリアが信じるようにされた出来事を知って、世々の人々は彼女を幸いな者と呼ぶであろう。そして、彼女のように信仰を起こされた者たちも、マリアと共に幸いな者たちと呼ばれるであろう。なぜなら、如何なる状況においても、希望を失うことがないからである。神の可能を信じることができるからである。人間を恐れる必要はないからである。マリアはそのような幸いを与えられた。それは、彼女のうちに起こった神への畏れに由来している。
神への畏れは、人間を謙虚にする。神への畏れは、自分の力を捨てるようにさせる。神への畏れは、すべてを神に委ねる。神への畏れは、神の憐れみを信じる。憐れみは、エレオスというギリシア語であるが、神の愛を表す言葉でもある。神の愛は憐れみである。憐れみとは、相手が愛されるべき何ものかを持っていなくとも、愛することである。「ハイデルベルク討論」においてマルティン・ルターはこう述べている。「神の愛はその愛するものを探すのではなく、むしろ創造する。人間の愛はその愛するものによって起こる。」と。人間の愛は、愛すべき対象を探し回り、自分が愛する相応しさを見出したものを愛する。人間の愛は、目に見える愛すべき姿を求める。しかし、神の愛は愛するものを造り出す、創造するとルターは言う。どのように創造するのか。愛することによってである。ルターはこう述べている。「なぜなら、人間の中に生きている神の愛は、罪人たち、悪人ども、愚か者ら、弱い者たちを愛するから。こうして、神の愛は彼らを義人たち、善人たち、賢い者たち、強い者らとなし、むしろ溢れ出ていって、善いものを与える。それゆえに罪人たちは愛されているがゆえに美しいのであって、美しいがゆえに愛されるのではない」と。愛されているがゆえに美しいとルターは言う。これが神の憐れみに包まれた者の美しさである。しかし、この世においては、低くされ、欠乏しているであろう。人から顧みられる何ものも持ってはいない。普通以下の存在として、蔑まれている。罪人たち、悪人ども、愚か者ら、弱い者たちとして、生きざるを得ない。自らに何も期待し得ない。他者からの助けを期待することもできない。しかし、神はそのような者たちを憐れみで包み給う。何も持っていないがゆえに、彼らは神の憐れみを素直に、純粋に乞い願う。神の前に自らを誇る何ものをも持ってはいない。ただ、「主よ、憐れみ給え」としか祈ることができない。神は、そのような者たちを愛し、愛する者として創造してくださる。この幸いをマリアは歌っている。
低くされているがゆえに、憐れみを受け入れる。高くされている者たちは、憐れみなど受け入れることはない。憐れみを施されたならば、自分も落ち目だと思ってしまう。そうならないようにと自分の力を強くするために努力してもいる。善いことをたくさん行って、この世の人々から褒め讃えられる。素晴らしい人だと持ち上げられる。このような自分が憐れまれるようになれば、もはや終わりだと思ってしまう。憐れみなど求める者は、不幸なやつだと蔑んでいる。しかし、神はこの世の不幸な者たち、この世の弱い者たち、この世の小さな者たちを愛し給う。彼らを憐れみで包み、ご自身の意志を実現する器として用い給う。それが神の憐れみである。
イスラエルの民も、かつては神の憐れみによってエジプトから脱出した。脱出ののち神に背き、荒野を彷徨ってもなお、神の憐れみによって、約束の地に導かれた。マリアはイスラエルの民に注がれた憐れみを忘れることのない神を讃美する。憐れみは神の愛。憐れみは愛する者を創造する。憐れみは愛する者を通して、溢れ出す。神を畏れる者を創造し、信仰を起こし、憐れみを受け取る者としてくださる。憐れみを溢れさせる者としてくださる。これがマリアの上に起こった「大いなること」。マリアが讃美する「大いなること」。
マリアの胎の実、イエス・キリストは大いなる神の出来事である信仰を与えるために、生まれ給う。我々人間が、如何なる状況においても、神の前に自らを低くして、神を信頼し、すべてを引き受けて生きるようにしてくださる。我々は、見捨てられることはない。神が負わせ給うたことを負う力は神が与え給う。苦難の中に、神の憐れみは宿っている。苦難を引き受けるように働いてくださる。苦難を恵みとして生きる信仰を起こして下さる。
使徒パウロが言うように、この世で人からどのように見られようとも、神の憐れみの眼差しはわたしたちの善き将来を見てくださっている。「嘘つきとして、かつ真実な者として、知られざる者として、かつ認められた者として、死ぬ者として、だが見よ、我々は生きている。懲罰を受ける者として、かつ殺されはせず、苦しんでいる者として、しかし常に喜んでおり、貧しい者として、しかし多くの人々を富ませ、何も持っていない者として、かつ一切を所有している者として」。我々の将来を見てくださるのは、神である。人間は今の貧しさ、今の愚かさ、今の低さしか見ない。しかし、神の憐れみに包まれた者は、神の眼差しを信じて歩む。
マリアの先駆者であったハンナも、息子サムエルを与えられたとき、神に祈った。「ヤーウェは持たない者とし、富ませ、低くし、さらに上げてくださる」と。我々が苦難を負うことは必然である。しかし、神は苦難の中にご自身の力を宿らせておられる。持たない者とされることで、神の力によって富ませていただく者とされる。低くされることで、神の力によってさらに上げられる者とされる。マリアもハンナも、同じ神による信仰を歌っている。我々キリスト者は、これら信仰の先達たちを起こし給うた神によって造られた者。神によって創造された者。信仰を与えられ、神の憐れみを素直に受け取るようにされた者。信じる者、愛する者を創造する神の愛が、イエス・キリストをこの世に遣わし給うた。
待降節第4主日の今日、我々を憐れみ、イエス・キリストを送ってくださった神を喜ぼう。神の憐れみは、何もないあなたを包み、ご自身の御子イエス・キリストと同じ姿に創造してくださる。あなたのうちに、キリストの形が創造される。キリストの十字架に従う信仰が起こされる。如何なるときも、幸いを生きる者とされる。あなたは神を畏れる者。あなたは神の憐れみに包まれている。生まれ給うイエスをお迎えし、信仰のうちに喜び生きていこう。
祈ります。

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