「存在」

2019年12月29日(降誕後主日)
マタイによる福音書2章13節~23節

「なぜなら、彼らは存在していないから」と語る預言者エレミヤの言葉が引用されている。「存在していない」とは存在がないことである。存在がないとは、この世において存在しているという現れが見えなくなったことであり、現れとして認識できなくなったということである。存在を失われたということなのだから、ヘロデの蛮行によって存在を奪われた幼子たちのことを語っているとマタイは引用している。本来、この言葉が語っているのは、バビロン捕囚によってイスラエルの地に存在しなくなってしまった若者たちのことである。ところが、この聖書には続きがある。エレミヤ書31章17節ではこう語られている。「あなたの将来には希望が存在している」と言われ、その理由は「息子たちが居るべき場所に帰るからである」と言われている。存在が失われた息子たちは居るべき場所から失われたが、その場所に再び帰るであろうと言われるのである。それゆえに、存在はその場所で失われても、再び居るべき場所に連れ戻されるのである。存在するということは、居るべき場所にいることなのである。
我々は如何なる場所が自分の居るべき場所なのかと考えるものである。どのような場所であろうとも「ここはわたしが居るべき場所なのだ」と受け取って生きているならば、そこは神が置かれたあなたの場所である。しかし、「ここはわたしの居るべき場所ではない」と思っているならば、どこにあろうともあなたの場所はない。あなたという存在は、自分が望む場所で存在するのではなく、神が置かれた場所を居るべき場所として存在するべきなのである。人間によって存在することを奪われたとしても、神が置かれる場所がある。それが、ベツレヘムの幼子たちが置かれた場所である。その場所は、イエスの十字架の場所。神がそこに存在するようにと置かれた場所。イエスは幼子たちと共に十字架の上に存在を証ししている。ここは神がわたしを置かれた場所なのだと。
イエスは、誕生の始まりから「居場所のない」存在であった。しかし、神はイエスを飼い葉桶の中に置かれた。神がイエスを置かれた場所がイエスの場所、イエスが居るべきところ、生きるべきところ、受け入れるべき存在の在り方である。それは、ベツレヘムの幼子たちにも言える。彼らは、ヘロデによって存在を奪われた。生まれたばかりで、これからどのような人生を歩むかも定まらないままに、存在を奪われた。ヘロデは、庶民たちの存在を奪う力を持っていると思ったであろう。三人の学者たちが探し当てたイスラエルの王として生まれた存在が、存在しないようにと、ベツレヘムの幼子たちの存在を奪ったヘロデ。彼は、自分の力で人間の存在を左右できると思っていた。いや、彼は恐れた。自分の存在が奪われるのではないかと。それゆえに、先回りして、多くの幼子の存在を奪ったのだ。
ヘロデが、自らの存在を、神が置かれたところで輝けば良いと受け取り生きていたならば、こうはならなかったであろう。ヘロデは、自分の地位である王位を自分の力で獲得したと思っていた。それゆえに、それを自分から奪われることを恐れた。それは当然である。自分で獲得できるものは、他者から奪われる可能性もあるからである。本来的に、自分に備わっている属性ではないからである。後から、自分が付け足したものでしかないがゆえに、失われることも起こる。それを起こすのは、他者である。ヘロデも、他者からその地位を奪ったのだから。これがこの世の在り方である。
自分が獲得したものは奪われるものである。自分が他者から奪ったのであれば、同じように奪われるであろう。それを恐れるがゆえに、ヘロデは幼子のうちにその存在を奪っておこうと考えた。ヘロデの地位を奪うはずもない幼子を殺害した。こうして、ヘロデは自らの存在を奪われるものとしてしまったとも言える。人間は、自らが為したように為されるものである。自分が奪ったものは、自分から奪われるものとなる。これがこの世の理である。しかし、自分が獲得したものではなく、与えられたものを受け入れる存在にとっては、他者から奪うことは生じない。そして、与えられることを継続することができる。奪う生は、奪われる生となり、与えられる生は、与える生となる。与えられることを生きているならば、与えてもまた与えられるからである。奪う生は、奪われればまた奪うことに生きなければならない。与えられることに始まる生は、与えることを生き、与えられる生を継続することができる。これがベツレヘムの幼子たちが我々に語っていることである。そして、イエスの十字架が語っていることである。
存在は、神が存在せしめるがゆえに存在している。自ら存在しているものは何一つない。にも関わらず、我々は自分で存在しなければならないと思い込んでいる。神が存在せしめなければ、このわたしは存在していないのだ。神が与え給わなければ、このわたしの存在の場所はないのだ。神が居るべき場所を与えてくださっているがゆえに、わたしは今ここにいる。そのように存在することがわたしが生きているということである。わたしは神の意志によって、ここに居るべき場所を与えられている。存在とはそのようなものである。
存在は、存在することを神に負っている。それだけが我々が存在するということなのである。それなのに、我々は自分で自分の居場所を確保しようと躍起になる。居場所はあなたが今存在している場所なのに、ここは違うと思ってしまう。それが罪であることを忘れている。アダムとエヴァも自らが存在したいと思い、神を凌駕できる力を手に入れようと、禁断の木の実を口にしてしまった。そして、喜びの園であるエデンから追い出されてしまった。いや、自ら出て行ったのだが、神に追い出されたと思っていた。それゆえに、我々は本来の居場所に戻ろうとする。神の場所、エデンを求めて生きるようになった。そのエデンは神が置かれた場所を受け入れるときに回復される。今、置かれている場所が神の意志だと受け入れるとき、我々に喜びの園であるエデンが回復される。神は、わたしを悪いところに置き給わないと信頼するとき、如何なる場所であろうともわたしの居るべき場所であることが分かる。その場所において、わたしはわたしを生きることができる。自分で獲得した場所ではないがゆえに、神の憐れみによって与えられた場所となる。神の愛が宿る場所となる。それが、我々の本来の場所なのである。
あなたが居るべき場所は神が与えておられる。その場所を離れることのないようにと、イエスは十字架を負ってくださった。場所を奪われ、地上に丸太一本分の場所しか持たなかったイエスは、我々の居場所を獲得するために、十字架を負われた。イエスの十字架の許にあなたの居場所がある。苦難を負わされようとも、与えられた場所がある。苦難の中にわたしの居るべき場所がある。苦難の中に、神の恵みが宿っている。あなたに与えられた場所は、苦しくとも居るべき場所。逃げ出したくなろうとも居るべき場所。ベツレヘムの幼子たちは、逃げることもできず、苦難を負わされた。しかし、彼らの場所は神の許にある。神の許に、彼らは居場所を与えられている。逃げ出すことができなかった彼らは本来の場所を得ている。神のうちに得ている。その居場所を守るのは十字架のイエスである。誰にも奪われることのない彼らの居場所。誰にも奪われることのない場所は神の許にある。彼らの存在は神があらしめている。神がおられるところに神があらしめている。それこそが我々の存在なのだ。あってあるお方こそが、我々を存在せしめ、我々の存在を守り給う。
イエスはこのお方のご意志に従って、居るべき場所に生きた。このお方の体と血に与ることによって、我々もまた本来の場所を回復される。神の許に、あなたの居場所がある。神が置き給うた場所が、あなたの居場所。あなたが生きるべきところ。負うべきものを負って、イエスに従い、神の許に生きて行こう。あなたは神のもの。神の恵みによって生かされている者。神が愛し給う存在。あなたの存在を愛し給うお方があなたの居るべき場所を与え、あなたという存在を生かしてくださる。
祈ります。

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