「救い主のしるし」

2019年12月24日(クリスマス)
ルカによる福音書2章1節~20節

「このことが、あなたがたへ、しるし。あなたがたは発見するであろう、包まれて、横たわっている乳飲み子を、飼い葉桶の中に」と天使は言う。羊飼いたちに与えられる「しるし」は、彼らが「発見するであろう」未来である。発見することが「しるし」だと言われるのはどうしてなのか。「しるし」とは本体を指し示す表示である。「発見するであろう」という未来が、本体を指し示す表示だと天使は言うのだ。それはどういうことであろうか。天使が語った通りに羊飼いたちが発見するということが、彼らに与えられる「救い主のしるし」だということである。しかし、それが救い主という本体を指し示す「しるし」だとはどういうことであろうか。
「しるし」そのものは、本体ではない。「しるし」はあくまで表示であって、本体は別にある。その本体を見出すのではなく、彼らが発見するしるしはいったい何か。本体ではなく、表示であるならば、飼い葉桶の乳飲み子は救い主ではないのだろうか。いや、彼らが発見するということ自体が、彼らに救い主が与えられたという「しるし」だと天使は言うのである。その「しるし」自体が、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という神の出来事を彼らに与えると天使は言ったのだ。従って、彼らは発見するために出掛けなければならないということである。それゆえに、彼らは「主がわたしたちに知らせたことが出来事となっているのをわたしたちは見よう」と、出掛けた。「救い主のしるし」はそれを「見よう」と出掛けることによって、彼らのものとしての出来事となるのである。
彼らが出掛けなくとも、救い主は飼い葉桶の中に横たわっているであろう。そして、他の人に見出されるかも知れない。宿屋の人が先に見つけるかも知れない。しかし、その人たちは天使の言葉、神の言葉を聞いていないのだから、彼らのための救い主として受け取ることはない。羊飼いたちだけが、「主が語ったこと」を聞いたのだ。それゆえに、彼らにしか、発見はできない。彼らだけが発見する。彼らだけが出掛けていかなければならない。天使が語った相手は羊飼いなのだから。ということは、羊飼いたちは発見する使命を与えられたと言える。
使命を与えられることで、人はより良く生きる者へと変えられる。それまで、自分たちは何もできないと思っていたであろう羊飼いたち。しかし、彼らにしかできないことが与えられた。それはただ発見するという使命である。その使命に従って生きるとき、発見したことは彼らのものとなる。そして、人々に伝えることが可能となる。こうして、羊飼いたちは最初の伝道者とされたのである。
自分のこととして受け入れる者でなければ、人に伝えることはできない。羊飼いたちを伝える者にしたいと、神は願われた。なぜなら、彼らが最も低くされていた者たちだったからである。自分たちの存在は誰からも顧みられることはないと思っていたからである。しかし、彼らはその後のすべての人が救い主を発見する端緒となった。彼らにしか発見できない飼い葉桶に横たわっている乳飲み子。彼らにしか発見できない、夜中の誕生。彼らにしか発見できない、乳飲み子の救い主。救い主が乳飲み子であることを知っているのは彼らだけなのだから。こうして、羊飼いたちは最初の伝道者とされた。彼らから、すべての人に伝えられる神の出来事が生じた。それが最初のクリスマスである。
救いは、発見する者がいて、伝えられていく。発見されないならば、発見しようと探す者は現れない。発見は、あるものをあると認めることである。あるものをあると認める発見を伝えるのが羊飼いの使命である。あるものはそこにある。ただ、発見されることを待っている。待っているお方は、飼い葉桶の中に横たわっている。発見されるのを待って、横たわっている。それだけが救い主の働きである。救い主は自らやって来るとは言え、発見されなければやって来ていないのと同じである。それゆえに、発見こそが「救い主のしるし」と言われる。
発見された救い主イエスは、ただの乳飲み子。何もできない乳飲み子であるにも関わらず、羊飼いたちは喜んだ。この乳飲み子について、彼らに語られた言葉を出来事として認識したからである。認識するということは、あるものをあると認めることである。救い主は、飼い葉桶の中に横たわっていたと羊飼いたちは認識した。これが彼らのために与えられた「大いなる喜び」である。誰も認識しなかったことを認識したから。認識するために、神は天使を通して、彼らに語った。語られたことが出来事として生じていることを羊飼いたちは認識した。神の言葉が出来事となっていると認識した。
我々の世界にはさまざまな出来事が生じる。至る所で、出来事が起こっている。誰かが何かを起こしていると我々は思っている。神が起こしているとは誰も思わない。しかし、羊飼いたちは神の言葉が生じていることを認識した。彼らは、自分たちが知識もなく、お金もなく、地位もない者であることを知っている。そのような低くされている存在が発見と認識を与えられたのだ。従って、天使が語ったように、この救いは、如何なる者にも、すべての人に与えられる救いである。知識がなくとも、お金がなくとも、地位がなくとも、与えられる救い。それが、飼い葉桶の乳飲み子が指し示している救いである。この乳飲み子こそ、羊飼いたちに救いを与える「救い主」である。彼らが、自分たちに与えられた「救い主」として受け入れた「救い主」である。
「救い主」は受け入れる者にだけ「救い主」である。他の者には、ただの乳飲み子。飼い葉桶に横たわっているただの乳飲み子。飼い葉桶に寝かされるような哀れな乳飲み子。受け入れない者にはそれだけである。神の言葉を聞かない者には哀れな乳飲み子でしかない。しかし、神の言葉を聞いて従った者には、確かな救いである。神は真実なお方であると信頼できる確かな救いである。そのような救いが発見された。発見された救いは、発見した者にしか救いではないが、同じように発見する者を起こすであろう。神の言葉に従う者には必ず発見される救いである。イエスは、乳飲み子でありながら、神の言葉に従う者を起こす救い主である。乳飲み子のときから、イエスは救い主である。
飼い葉桶の乳飲み子は、十字架と復活を指し示している。十字架に死んだ者が救い主だとは誰も思わない。しかし、イエスは復活のときも、ご自身を見られるように示された。それを受け入れた者は、十字架のイエスが復活したことを発見した。救い主は発見する者の救い主として生きている。それがクリスマスに生まれ給う乳飲み子イエスの救いである。
羊飼いたちが、自らの愚かさ、弱さ、地位の無さの中に生きざるを得ないとしても、彼らには救い主が与えられた。それだけが神の真実である。神の憐れみである。神の愛である。彼らが受け取ることができるようにと、夜中に、飼い葉桶の中に、乳飲み子イエスを置き給うた神の真実である。この神の真実によって、羊飼いたちは救われた。彼らが発見するために、自らの闇を離れて、光の方に来たように、我々も出掛けていくことができる。救い主を発見するために出掛けることができる。ただ、あなたが神の顧みを信じるだけで、出掛けることができる。
あなたの低くされていること、知識の無さ、無力さの中に、あなたの救いは隠されている。低くされることによって救いに至る。無力さによって救いを与えられる。知識の無さによって、神の真理を知らされる。あなたの力ではなく、神の力によってあなたは救いに至る。この世の最も低いところに生まれ給うたイエスによって救いに至る。狭い戸口から入るように努めよとおっしゃったイエスがそこにおられる。入ろうと努める者にしか見出されない。出かける者にしか見出されない。それゆえに、見出す者は少ないであろう。
あなたにしか見出すことができない救いがある。あなた自身の弱さの中に、低さの中に、無力さの中に、救いがある。あるものをあると認める目を開いていただこう。誰も歩まない道の上に、誰も入らない戸口の向こうに、救い主は待っておられる。誰も探さないいのちが生まれた日、クリスマスおめでとうございます。

祈ります。

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