「無効化する赦し」

2020年1月1日(新年)
ルカによる福音書13章6節~9節

「何のために、地を、それは無効化しているのか」と主人は言う。いちじくの木は、地が働かないようにしていると言う。いちじくの木が実をもたらさないからである。実をもたらすことが、効果的に地が使用されていることだと主人は言う。そのために、いちじくの木に地を占有させているのだと。実をもたらすことがなければ、いちじくの木は地が働くことを妨げているというわけである。
もちろん、木が実をもたらすということが、地が良く働いているということである。その地の働きを受けながら実をもたらさないとすれば、地の働きを無駄にしていることになる。地が働かないようにしている。地を無効化していると主人は言うのである。従って、実をもたらすならば、その木は地の働きを有効に生かしているというわけである。実をもたらすということがすべてである。実をもたらさないならば、木は生きているとは言えない。実をもたらさなければ、他の木の場所を占有しているだけの存在となる。それでは、他の木の可能性を妨げることになる。それが「無効化している」と言われる意味である。他者の可能性の場所を占有しながら、何ももたらさないならば、我々人間も他者の可能性を無効化していることになる。自分がそこにいるだけで、他者を妨げている。この世の価値観はこのようである。主人が語っていることも、この世の価値観に従っている。ところが、ぶどう園の園丁は違う。無効化を許容するようにと主人に求めるのである。
地を無効化することは、確かに他者の可能性を妨げることになるであろう。しかし、現に生きて、その場所に置かれている者が失われることもその可能性をはぎ取られることではないか。いつ現れるのかは誰にも分からないからである。この無効化を許容することが、赦しということである。それゆえに園丁は言う。「彼女を赦してください、またこの一年も」と。無効化している彼女を赦してくださいと園丁は言う、「またこの一年も」と。確かに、これまで主人は三年間、いちじくの木が実をもたらすことを期待して待った。三年間待つということは、三年間可能性を信じたということである。主人は、三年間無効化を赦したということである。実をもたらすならば、無効化した年月は帳消しになるということである。これが行為義認の根本にある考え方である。信仰義認の根本は、無効化を赦すこと。可能性を保持し続けること。一旦、与えられた可能性を保持することが信仰義認の根本にある考え方である。
園丁は「またこの一年も」と言っている。あと一年だけということのように思える。ところが、昨年も一昨年もこの言葉が語られたのである。あと一年ということではなく「またこの一年も」という言葉にはこの先の「またこの一年も」を予見する永遠の赦しが含意されている。もちろん、園丁は来年も「またこの一年も」と言えば良いと思っているわけではない。「またこの一年も」わたしはこのいちじくの木の周りを掘って、肥やしをやり、手入れしますという園丁の労苦の継続が語られる。単に、放っておくわけではない。「またこの一年も」園丁は労苦することを引き受けるということである。いちじくの木に栄養を与え続ける。いちじくの木が実をもたらす木となるようにと努力する。いちじくの木が他者のために働くものとなるように手を尽くす。その意志が語らせる言葉が「またこの一年も」なのである。
実をもたらせば、主人は喜ぶであろう。そのために「またこの一年も」と園丁が言うかのようである。しかし、そうではない。園丁は、いちじくの木の可能性を保持することを求めている。主人が喜ぶように実をもたらすことは、その可能性の結果である。園丁はいちじくの木に与えられている可能性を信じ、可能性にかけて、自ら労苦を引き受けるのである。これが神であり、主イエスであり、福音なのである。一方、主人が実を求めることは律法である。律法を実現するのは福音でしかない。律法はただ求めるだけで、可能性を切り捨ててしまう。福音は、可能性を保持するために、自ら労苦するキリストの働きによって救われると教える。律法は、実をもたらせと要求するが、その力を与えはしない。律法を実現するのは、いちじくの木ではない。園丁の労苦である。園丁の労苦によって、いちじくの木は実をもたらすものとされる。この可能性を保持する園丁こそ、十字架のイエスである。
イエスがこのたとえを語ったのには理由があった。このたとえの前に、人々が噂していた。ピラトがガリラヤ人たちの血を犠牲の血に混ぜたこと、シロアムの塔が壊れて死んでしまった人たちがいたこと。人々は、殺害されたガリラヤ人や死んでしまった人たちは滅びたと噂していたのである。彼らは罪深かったから、神によって切り倒されたのだと。そこで、イエスはこう言っていた。「あなたがたが悔い改めなければ同じように滅びるであろう」と。そして、このたとえを語った。切り倒されそうになるいちじくの木のたとえを。だとすれば、イエスもまたガリラヤ人たちや事故に巻き込まれた人たちは滅びたと考えているのであろうか。
ここで問題となるのは「悔い改める」という言葉である。この言葉は心の向きを変えることであり、視点の転換、生き方の転換を意味する。人間的に思考していたところから方向を逆転すること。神に背いていたところから方向を神に従うように向き直ること。神を信頼できないでいたところから信頼する生き方に方向転換すること。この悔い改めの意味からすれば、イエスが人々に言うのは、人間的裁きの視点、律法的裁きに基づいた生き方を変えて、神の憐れみ、神の赦しに信頼することである。人間的裁き、律法的裁きに基づいた生き方をしている限り、あなたがたも同じように滅びるということになるのだとイエスは言うのだ。律法的価値観によってすべてを測る生き方は、死を裁きと考えるからである。死が切り倒しであると考えるからである。死は決して切り倒しではない。死さえも神が与え給うものであるならば、裁きではなく愛である。この愛に向き直ることをイエスはこのたとえで語っている。
主人の裁きの視点ではなく、園丁の憐れみの視点からあなた自身を見るようにとイエスは語っている。我々が裁きを逃れるために、実をもたらすとすれば、それは純粋な実ではない。純粋に他者に与えられる実ではない。自分のための実でしかない。そのような実しか我々人間はもたらすことができない。自分のためにしか実をもたらさないのが人間であり、罪人である。この生き方から方向転換して、神の憐れみによって生きることが信仰なのである。
「またこの一年も」と言ってくださる主イエスによって、我々は可能性を保持していただいている。与えられた可能性が現れることを守っていただいている。「またこの一年も」と労苦を引き受けてくださるお方が、我らの主イエス・キリスト。キリストが負ってくださった労苦があの十字架である。十字架には永遠の赦しが現れている。「またこの一年も」と神に執り成してくださる十字架のキリストがおられることで、我々は主が来られるときまで可能性を保たれているのだ。このお方の血によって、我々は救われている。我々の力では、実をもたらすことができないとしても、このお方の血によって実をもたらす者とされる。他者に純粋に与える者とされる。その可能性はあなたのうちに生きるキリストによっている。あなた自身には不可能なことをキリストは実現してくださる。「またこの一年も」キリストの労苦に支えられ、歩み続けていこう。
キリストの体と血に与って、キリストに生きていただいて、キリストの形があなたのうちに形作られるように生きて行こう。この一年もまた、キリストは我々を導いてくださる。良き一年として、労苦を共にしてくださる。まず、労苦を引き受けてくださったキリストがおられるのだ。あなたは、ただキリストに信頼すれば良い。あなたの前には、永遠の可能性が開かれている。そのために、キリストはご自身の体と血をあなたに与えると言われる。あなたのうちに生きるために、わたしの体と血を与えると言われるキリストに感謝しつつ、「またこの一年も」可能性を生きていこう、キリストの言葉によって、キリストの体と血によって。
祈ります。

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