「最劣の選び」

2020年1月5日(顕現主日)
マタイによる福音書2章1節~12節

「あなたは決して最も劣った者ではない、ユダの支配者たちの中で。なぜなら、あなたから支配者が出てくるであろうから。その人は、牧するであろう、わたしの民、イスラエルを」と預言されている。ベツレヘムは、ユダの指導者たちの中で最も劣った者である。しかし、最も劣った者ではないと言われる。その理由がイスラエルを牧する支配者が出てくるからである。ここで使われている「決して、~ではない」という副詞は、「唯の一つも無い」という意味である。唯の一つも劣ったところがないという意味で使われているが、それは最も劣った者の全体が最も劣ったところは唯の一つも無いという意味である。この引用箇所であるミカ書5章1節では、「最も小さき者である」と述べられている。そのあなたから、イスラエルにおいて支配する者が存在するために出てくると言われている。ミカ書のヘブライ語では、否定は語られていない。むしろ、「最も小さき者である」肯定が語られて、そのあなたから支配者が出てくると言われる。「最も小さき者」が肯定で語られる。マタイが引用する「最も劣った者ではない」は「最も劣った者」が否定されているのだから、この世の価値においては「最も劣った者」との評価を受けるであろうがそうではないという意味である。まず、「最も劣った者」、「最も小さい者」が肯定されなければ否定はできない。否定は肯定を否定するからである。神は、ベツレヘムを選んだ。それは「最も小さき者」、「最も劣った者」だったからである。これが神の選びの基準であることは、旧約聖書が語り続けていることである。それは、我々人間の創造において最も良く語られている。
我々人間の創造の前には、自然の木々、海の魚、空の鳥、地の獣たちが創造されている。そして、最後に人間の創造が語られるところでは、「地の塵」から造られたと言われている。単に地、土から造られたのではない。土の塵、埃、最低の物質、最劣の物質から造られたのが我々人間だと述べられている。その人間が、地を治める者として造られている。物質的に最も劣った者が治めると言われるのである。使徒パウロが言うように、この世で存在を認められないような存在を神は選ぶということである。それが我々キリスト者だというわけである。この選びには、キリストの十字架の光が差し込んでいる。この世で最低の者として十字架刑を受けたイエス・キリストが救い主として立てられることと一致している。神の選びは最劣の選びである。
この世で、使いものにならないと考えられる存在を選ぶのが神の選びである。あのダビデにしても、兄弟の中で最も小さい者であった。預言者サムエルは、兄弟の中で最も背が高く、力強く見えるエリアブに目を留めた。そのとき、ヤーウェはサムエルに言う。「見た目や最も高い高さを見るな。なぜなら、わたしは人間が見るようには見ないから。なぜなら、人間は目によってみるが、ヤーウェは心によって見るからである」と。この世で価値あると見えるもの、この世で力強く見えるものをヤーウェは拒否すると言う。それは心によって見るからだと。この世の見方、この世の価値観を見るのではなく、誰も認めないところ、心によって見る神ヤーウェ。このお方の見方は、最劣のものを見るのではあるが、その心がどこにあるかを見るということである。最劣のものこそ、見た目を誇ることができないからである。そのような意味で、最劣のものであるベツレヘムの選びが語られている。
塵に過ぎないもの、最も低いもの、最も劣ったものが選ばれる。使徒パウロも第一コリント1章27節で言うように、この世で最も劣ったものが、この世で存在を認められている存在を否定するものとして立てられるのである。それは、誰も自分を誇ることがないためであると、パウロは語っていた。それが神の選びであり、神を神として崇め、信じる者の選びである。それゆえに、三人の学者たちがヘロデの王宮に行っても、失望のうちに出て行かざるを得なかった。ところが、その失意の学者たちを導くのは、誰も認めなかった星であった。星は見えなかったが、そこに輝いていた。学者たちが地の上の最も大きな、最も輝いているところに救い主を求めたときには、その輝きが見えなくなっていた。しかし、失意のうちに出て来たとき、彼らは再び見出した、夜空に輝く星を。その星に導かれて、彼らは救い主のところへ辿り着くことができた。これが神の選び。これが最劣の選びである。
学者たちも失望しなければ、見出し得なかった星と救い主。輝いているのに、見上げることがなかった夜空の星。最も劣った者として、学者たちも選ばれたと言える。彼らは、人間的に救い主を求めるところに陥って、見出し得ない失望の淵に落とされた。そのとき、神からの選びを受け取るようにされたと言える。最劣の者の肯定は、そのようにして、我々を神の御業の中に置く。自らが、罪人であることを認めることが、神に義と見ていただくために必要なことなのである。これが信仰によって義と見なされる「信仰義認」が語っていることである。
見た目に現れているところを神が見ることはない。我々の心を見る。その心が失望し、最劣の者であることを認めたとき、神の選びが生じる。神は、最劣の者を選ぶ。それゆえに、選ばれた者は自らを誇ることはない。あなたの力、あなたの背の高さ、あなたの見た目の麗しさによって、神が選んだのではないことを心に留めなければならない。あなたが選ばれたのは、あなたが最劣の者だったからである。最悪の者だったからである。最も罪深い者だったからである。マルティン・ルターが言うように「大胆に罪を犯せ。そして、大胆に悔い改め、祈れ」ということである。罪を犯さない者になろうとして生きるのではなく、如何に善いことを行っても罪を犯してしまう存在であることを認めて生きよ、ということである。善を行って、罪を犯す者なのだから、善を行わないようにするのではない。気をつけていても、罪を犯してしまう。しかし、善は行うべきである。行った後で、罪を行ってしまったことを認め、悔い改める。わたしが行った善は罪であったと悔い改める。善を善として働かなくしてしまう自らを悔い改め、神に祈る。わたしが行った善はわたしの罪と告白する。わたしが行った悪も、わたしの罪と告白する。わたしが行うことは、如何なるときもわたしの罪の結果と告白する。このような最劣の者であるわたしを救ってくださる神に祈る。そのような者が、神に選ばれ、神の器として用いられる。この世の価値観を覆す器として用いられる。これが神の最劣の選び。最劣の者として、神が用いられる神の器。
使徒パウロは第一コリント15章9節で言う。「わたしは最も劣った者、使徒たちの中で。使徒と呼ばれる価値もない者、神の教会を迫害したのだから」と。パウロは、最劣の者であると告白している。しかし、神はそのパウロを救い主の福音を宣べ伝える器としてお立てになった。三人の学者たちも、神の遣わし給う救い主を人間の王宮に求めるようなことをしたわたしたちには、もはや救い主は見出せないと失望したであろう。その失望の底から、彼らは救い主の星を認める目を開かれた。最劣の者であることを、罪人の頭であることを認める者に、神の救いは見出される。神の星が見える。救いに導く星が見える。
我々も最劣の選びに与った者たち。我々は最も罪深い者。この世で最も罪深い者。その我らを神は選び給うた。これが救いである。我々には価値はない。我々に力はない。誇るべき何ものもない。あるのは罪深さだけである。その我らを神が選び、御許に引き寄せ給う。
この世において、最悪の死、十字架の死を引き受け給うたお方が、そのあなたの罪の中に入ってくださる。あなたの罪をご自身の罪としてくださる。ご自身の救いの力をあなたに与えるために、あなたの罪の中に入ってくださるお方によって、あなたは救われている。キリストはあなたの最も劣ったところに来てくださる。今日も、キリストの体と血に与って、救われた者として生きて行こう。最劣のあなたを選び給うたお方の器として、救いの福音を宣べ伝えていこう、十字架の主イエス・キリストに従って。
祈ります。

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