「神近づくところ」

2020年1月19日(顕現節第3主日)
マタイによる福音書4章12節~17節

「ヨハネが引き渡されたと聞いて、彼は去った、ガリラヤへ」と記されている。ナザレを離れ去ることは、イエスの本来の場所、生まれ故郷を離れることである。イエスは、自らの場所であるナザレを離れ、海辺のカファルナウムへと向かった。それは宣教のためであった。宣教するために、イエスは自らの場所を離れる必要があった。故郷では預言者は敬われないことを知っていたからである。
ヨハネが引き渡されたことを知って、イエスはヨハネに代わって宣教する。それゆえに、ヨハネの宣教の言葉と同じ言葉で宣教が開始された。基本的宣言はヨハネと同じ「天の国が近づいた」という宣言である。しかし、イエスは悔い改めへの洗礼を宣べ伝えたわけではない。イエスの宣教は癒やしを伴う宣教であり、洗礼を受けさせることを目的とはしていない。ヨハネの宣教は、「天の国が近づいた」と言いながら、悔い改めに相応しい実を結ぶことで、天の国、神の支配に近づくことが目指されていたと言える。もちろん、その力をヨハネは与えることはできなかった。ヨハネの働きは、人間に限界を認めさせ、求めさせるところまでであった。一方、イエスは「天の国の接近」を先鋭化させている。それが、癒しを伴う宣教である。これについては、マタイによる福音書4章23節以下で述べられるが、本日の日課においては「闇の中に座している者たちに光が上った」こととして語られている。
病に苦しむ者たちは抜け出せない「闇の中に座している」存在である。その闇は、当時のユダヤ教指導層たちが造り出していた。病は神の罰であるという思想があった。病において神が罰を与えておられるのだから、人間がその罰を取り除いてはならないというのである。しかし、イエスはそのような考え方が闇であり、神は罰を与えるお方ではないということを伝えるために、癒やしを行われた。闇に座している存在は、抜け出せない闇に縛り付けられていた。この人たちを病から解放し、福音を宣べ伝えた。
病から解放するということは、やはり病は罰だということであろうか。いや、罰ではなく、恵みだということである。近づき給う神を受け入れるのが病という恵みなのである。病を与えられることが闇だと思い込まされていた人たちにとって、神近づき給うところとして、病という闇に光を与えたのがイエスである。そのような意味で、イエスは闇の中に輝く光であり、闇を知らない者にとっては理解不能な存在であった。自分たちの力で神に近づくと考えていたファリサイ派たちにとっては、理解不能であり、彼らには神の恵みは必要ないものであった。彼らは、自らの地位、自らの裕福さが神の恵みであり、闇に座している必要がないことが幸いであった。
イエスは闇に光を与えた。闇に座しているしかない存在に光が与えられた。闇に思えた病が恵みの光に満たされた賜物に変えられた。イエスの存在を通して、天の国の接近が宣べ伝えられた。それが闇の領域と考えられていたガリラヤへとイエスが入って行って、住んだ意味である。神近づくところはこの世の闇。神近づくところは死の陰の地。神近づくところは異邦人のガリラヤ。異邦人が入り込みやすいガリラヤは、異邦人の汚れが入り込む地。それゆえに、闇の地。病という闇だけではなく、異邦人の地という闇も、ガリラヤは抱えている。カファルナウムには、ヘロデ王の軍隊のローマ式駐屯地があった。この異邦人の地において、イエスの宣教が始まったということは、異邦人もイエスの宣教を聞いた可能性があるということである。異邦人は救いの外に置かれた存在である。従って、病と異邦人は救いの外にあり、闇の中にある。その闇にあえて入って行ったイエス。このお方が光である神が近づくところを指し示しておられる。神近づくところは闇である。光の外の世界である。
当時の考え方から言えば、エルサレムから遠く離れているガリラヤは物理的にも闇の世界であり、そこに座している存在を見ても闇と考えられた。その世界にイエスは入っていく。イエスの宣教拠点は闇である。そこに「天の国が近づいた」との宣言をもって宣教した。それゆえに、闇の世界に天の国が近づいたと宣べ伝えた。神近づくところは闇である。なぜなら、光を必要としているからである。光は、光の世界には近づく必要はない。闇の世界に近づき、照らすのが光である。イエスは光として闇の世界に入って行かれた。光の世界に住んでいると思っていたファリサイ派たちは、闇の世界を避けていた。闇の世界に入らないことで、自らの光を保っていた。イエスは反対に、自らの場所を離れ、闇の世界に入っていった。
光を必要とする世界こそ、光が与えられなければならない。しかし、当時もそして現代でも、光を必要とする世界に光は与えられず、光を独占している者たちが闇を閉め出して満足している。自分たちの世界が闇に汚染されることを恐れ、自分たちの世界の光が陰ることを恐れる。闇の世界を外に放り出しておけば、自分たちの光がより輝くと思う。闇の世界があることで、自分たちの世界が守られているにもかかわらず、闇の世界に座している人たちを蔑む。そこから抜け出せない状態に置いて、自分たちの世界を守る。いつの時代にも、これが光の世界に住んでいると思う者たちの在り方である。
彼らは自らの世界を守る。反対に、イエスは自らの世界を捨てて、闇の世界に入る。自らの世界、安全な世界、安心できる世界を守る者たちは、闇の世界を切り捨てて行く。闇に光が来たるようにとは、働かない。自分たちの世界にもっと光が来たるようにと働く。光は闇を深める。それが彼らの光の世界の在り方。彼らの精神の闇。彼らの内なる闇の世界。その闇に苦しめられているところに、イエスは入って行く。天の国が近づくように入って行く。神が近づくところは闇だとでも言うように、入って行く。闇は神近づくところ。恵みに溢れたところ。光を求める闇こそ、神近づくところ。
我々は、自らの闇を知るとき、この闇に入り来たり給うお方を知る。神の憐れみは、闇の中に。神の憐れみの光は闇を照らす光。病も汚れも、神近づく恵みの場。恵み溢れるところ。イエスが近づき、闇は光となる。このお方の存在に光を見る者は、闇の中に座していようとも、必ずや光を見る。それがイエスの宣教の言葉の意味である。「天の国は近づいた」と宣教したイエスは、悔い改めること、生き方の方向転換、世界の方向転換を求めた。天の国が近づくことへと方向を転換せよ。世界の見方を変えよ。我々が変えることのできない世界を逆転したお方に従って世界を見るとき、あなたは近づき給う天の国を知る。そのとき、あなたの闇は光に変わる。
闇の世界は光の世界となる。神の憐れみの世界となる。神の恵み深い御心が実現する世界となる。イエスによって、この新しい世界が開かれた。闇に入り給うお方によって、新しい光の世界が開かれた。開かれた世界に、光が充満するようにとイエスは宣教した。このお方の宣教によって、我々は闇を光として生きる。苦難を恵みとして生きる。求める者に与えられる世界を生きる。探す者が見出す世界を生きる。戸を叩く者に開かれる世界を見出す。神は求めておられる。ご自身に祈り求める民を求めておられる。闇の中に座していなくとも良いと宣言してくださる。イエスの宣教によって、神の憐れみが降り注ぐ闇が開かれた。イエスの宣教によって、求める者に光が与えられた。神近づくところが開かれた。
この世界を開き給うたお方が我らの主、イエス・キリスト。あなたの闇はもはや闇ではない。神の恵みが宿る光の世界。神の恵み溢れる世界。この世界の闇に、神が近づき給う。我々の闇を払拭する神の御業を感謝して受け入れよう。闇に座す必要はない。立ち上がって、歩き始めよう、光の中を。神の世界を生きて行こう。如何なるところにもある闇が、神の世界。この世の片隅が、神の近づき給う中心の世界。神の恵み溢れるところ。
イエスは、ご自身が闇に入る苦難を通って、光をもたらしてくださった。イエスの体と血に与る聖餐を通して、その光を我々のうちに保持してくださる。あなたのうちにイエスが入り来たり給う聖餐を通して、あなたの闇が照らされ、光の世界が開かれる。感謝していただこう。
祈ります。

Comments are closed.