「手放し」

2020年1月26日(顕現節第4主日)
マタイによる福音書4章18節~25節

「しかし、彼らはすぐに網たちを手放し、彼に従った」と言われ、「しかし、彼らはすぐに舟と父を手放し、彼に従った」と続けられている。ここで「しかし、すぐに、手放した」ことが繰り返されている。しかも、彼らはイエスに「呼ばれた」だけである。ペトロたちは「わたしは作ろう、あなたがたを人間の漁師として」と言われたが、漁師の網を手放した。もちろん、人間の漁師であれば、魚の網は必要ないと思ったのかも知れない。ところが、ゼベダイの息子たちは、父までも「手放し」、イエスに従ったと記されている。この日イエスに従った弟子たちは、「手放し」を実行した。実行した方が良いと考えて、実行したわけではない。なぜなら、彼らは「すぐに」「手放し」たからである。
「すぐに」ということは、考えることなく、考える暇もなくということである。よく考えて、「手放し」が行われたわけではない。イエスに従うには、すべてを手放さなければならないと考えたわけでもない。直感的に手放した。何も考えることなく手放した。これは、イエスの呼びかけの言葉にも起こっていることである。人間的な判断が差し挟まれないうちに、イエスは四人を見て、声をかける。この人たちはきっと良い人間の漁師になるだろうとイエスが判断したのではない。むしろ、そこで初めて出会い、イエスが声をかける気になったというだけである。そのように思わせたのは神である。弟子たちが、「すぐに」「手放し」を行うようにされたのも、神の働きである。神がそこに働いておられなければ、「すぐに手放す」ことなど起こり得ない。そして、何も考えずに従わなければ、我々は神に背くだけである。原罪は、我々が蛇に唆されて、考えすぎたがゆえに、陥ったものだからである。
しかも、ゼベダイの子らは「父」さえも手放したと記されている。父を手放すということは、「父と母を敬え」という第4戒に背くことではないのかと思える。しかし、そうではない。手放す方がかえって背かないのである。手放すということは、自分がしっかりと握っていなければならないと思っている支配願望を手放すことだからである。アダムとエヴァは、自分が神のようになりたいと考えて、禁断の木の実を食べてしまった。そこにあるのは支配願望である。父を手放すことは支配願望を捨てることである。父という人格を尊重することである。父は神が支配し給う一己の人格だと認めることである。このような認識の下で、我々は「手放し」を実行できる者とされるのである。「手放し」は、冷酷なことではない。むしろ、手放さないことの方が冷酷なことなのである。その人の人格を認めず、その人に定められた人生の道を認めず、自分の支配下に置いて支配し続けようとすることほど冷酷なことはない。手放さないということは、支配し続けることである。手放すことは、その人の人格と神の配在を受け入れることである。神がその人を造り、その人の人生を導き、その人を用い給うと信じ、神の御業に従うことが「手放し」である。
我々人間は、自分の周りに自分の気に入るものを配置して安心するものである。気に入らないもの、自分に従わないものは手放すが、気に入ったもの、自分に従うものは手放さない。こうして、我々は自分の周りに自分の世界を築いて、自分の支配領域を確保する。これらのものをしっかりと握っていては、イエスに従うことはできない。まして、神の国に入ることもできない。弟子たちが「すぐに」「手放し」を行ったのは、彼らが何も考えなかったからであるが、神に従うことは自分の考え、自分の判断を捨てることだからである。神の意志、神の呼び給う意志に素直に従うことが、神に従うことであり、イエスに従うことである。
このようなところに生きるには、何が必要なのだろうか。何も考えないとは言え、我々は考えてしまう存在なのである。我々の判断が入り込まないということは、何も考えないというよりも、神の判断を第一とすることである。わたしの考えは、わたしの手放せない心から生じていると認識することである。手放せない心が原罪であると認識していることである。この認識を持っている者がキリスト者である。キリスト者は、自らが原罪に支配され、他者を縛り付け、自分の世界を構築しようとしている罪人であると認識している。そのような罪人が考えることは悪でしかないと認識している。それゆえに、神の起こし給うた最初の純粋な思いに従って、素直に行動する。このようなところに生きるために、我々キリスト者は洗礼を受けた。洗礼によって、自分の世界を手放し、神の世界に生きる者とされた。神の世界に生きるということは、神に従うことである。神に従うことは、わたしの思いを捨てることである。わたしの魂がキリストの魂と一つとされるように生きることである。
洗礼を受けた者が、その瞬間から完全にキリストの魂と一つとされているわけではない。未だに、我々のうちには原罪を負った魂が残存している。キリストの魂と一つとされてしまっているわけではない。一つとされつつあると言った方が良い。我々のうちには、再び悪が忍び込み、キリストと一つにされないようにと、我々の足を引っ張る。洗礼を受けていても、それだけでは完全になっているわけではない。完全な者になりつつあるだけである。このような状態にある我々は、常に謙虚に自らを見つめなければならない。そのために、週毎の礼拝に与るのである。我々も、よく考えて、キリストに従ったわけではない。ただ、キリストに従いたいと思わされた思いに従った。どれだけ考えようとも、キリストに従いたいとの思いを捨てることができなかった。従いたいという思いの根源には、「このお方は決して嘘をつかない。このお方に従っていこう」という思いがあるのだ。このお方が歩まれた道は真実であり、このお方が先立って歩んだ道なのだから、決して失われることはないと信じることである。
このような思いは、よく考えて与えられるものではない。ただ、直感だけである。よく勉強して、洗礼を受けたと思う人も、実は学びを通して、この直感を確かだと認識するようにされたというだけである。学びがわたしをキリスト者にするわけではない。神が起こされた思いが、わたしをキリスト者にしたのだ。この思いは、我々のうちに働いて、従わせ給う神の意志である。
我々がよく考えてキリストに従うとすれば、キリストは我々に判断される対象に成り下がる。キリストが我々を判断するのであって、我々がキリストを判断するのではない。キリストを判断しようとする者は、永遠に従うことはできない。最初の思いに素直に従うことだけが、キリストに従うこと、神に従うことである。これは、西田幾多郎が言う「純粋経験」に近い。何の判別もない経験。それが純粋な経験である。弟子たちは、イエスがどんなお方か分からないままに従った。普通、そんなことをする人はいない。騙されていないかどうか、よく調べて、「この人なら信用できそうだから、ついて行こう」と判断するものである。弟子たちは、そんなことをする暇もなく、「すぐに」「手放し」て従ったのである。これは冒険であるが、内なる思いに素直に従った結果である。だから、宗教は恐いと言われるかも知れない。しかし、そのように考える人ほど、自分を手放すことができず、周りを支配し、従わせ、自分の世界を構築している。そのような世界を破壊するために、イエスは弟子たちを呼んだ、「わたしの後について来なさい」と。イエスは「手放し」を命じてはいない。ただ「わたしの後について来なさい」とおっしゃっただけである。ただ、イエスの後についていくことを求めたのである。それゆえに、何も持たず、手放してついて行った弟子たち。彼らも我々も、ただイエスに喜んで従った。それだけである。そのとき、イエスと我々の魂は一つであった。これからも離れることなく、イエス・キリストの魂とあなたの魂とが一つと成っていくようにと、イエスは日々我々を呼んでくださる。日々の生活において、キリストの魂と一つとされて、終わりの日に向かって歩み続けることができますように、あなたの魂を愛する神の御業の中で。
祈ります。

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