「美しき働き」

2020年2月2日(顕現節第5主日)
マタイによる福音書5章13節~16節

「そのように、あなたがたの光を輝かせなさい、人間たちの前で。そうすれば、あなたがたの美しい働きたちを彼らは見るであろう。そして、彼らは栄化するであろう、天におけるあなたがたの父を」とイエスは言う。「あなたがたの光を輝かせよ」とおっしゃっている。「あなたがたの光」とは「あなたがたの美しい働きたち」だということである。
「美しい働きたち」と訳した言葉は、「立派な行い」と訳されている。ここで使われているカロスという形容詞は「美しい」という意味である。この言葉が聖書の中で最初に出てくるのは、創世記1章の天地創造の記事においてである。創造したものを神が「良しと見た」というときの「良し」がカロス「美しい」である。ヘブライ語では、トーブという言葉であるが、同じく「美しい」という意味である。この美しさは、立派とか良いと言われる美しさであり、調和が取れた良さである。これと同じ言葉が、「あなたがたの美しい働き」に使われている。
天地創造の時の「美しい」というヘブライ語のトーブやギリシア語のカロスは、神の言葉に従う姿を「美しい」と述べているが、神の言葉に従わない罪との対比で使われている。「美しい働き」は罪の「汚れ」とは対照的な事柄である。すべて神が語られた通りに「成った」ということが「美しい」のである。神に従うことが「善」であり、「美しさ」は「善」である。神の意志に従うことによって生じる「美しさ」であり、神が認める「美しさ」である。従って、美しさは神の言葉から来る。美しさは神の言葉のうちにある。それゆえに、イエスがおっしゃる言葉、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」という言葉に従うとき、あなたがたは美しい。美しく生きることができる。イエスの言葉の通りに生きるとき、我々は美しく生きる。この世で、汚れていると見られようとも、美しい。この世で、捨てられようとも、美しい。この世で殺害されようとも美しい。それが「地の塩」、「世の光」である。
イエスがおっしゃったのだから、我々は「地の塩」である。イエスが宣言してくださったのだから「世の光」である。塩として、光として、生きることができる。イエスの言葉を信じるとき、我々は「地の塩」、「世の光」。イエスの言葉が、あなたを「地の塩」とする。イエスの言葉が、あなたを「世の光」とする。塩と光は、自分のために生きてはいない。他者のために生きている。塩自身の塩味は、他者に火を付ける着火剤としての塩味である。光が光であることは、他者を照らし、光を与えることである。闇に思えるところに光を輝かせることが光の働きである。これは、他者の良いところを見てあげるということではない。他者のありのままを照らすのが、光である。ありのままであれば、周りから見れば欠点と見えるところも、ありのままに照らす。隠すことなく照らす。それが、光の光たるところである。
しかし、そこには善悪の判別や、蔑みはない。ただ、そのようであるように照らすだけである。光は判断しない。ありのままを照らす。照らされた人が、自らのありのままを受け入れるように照らす。それが光である。しわやシミまで照らさないで欲しいと思う人がいるかもしれないが、それらは欠点ではないと照らす。それがあなた自身だと照らす。これが光である。そうならば、薄暗がりの方がまだ良いと思う人もいるかも知れない。しかし、罪は罪である。どれだけ、薄く見えても、罪は罪である。どれだけ少なく見積もろうとも、少しでも罪があれば罪である。従って、罪のない者などいない。一人もいない。
多くの人間は、自分の罪は棚に上げて、他者の小さな罪をあげつらうものである。自分が指摘されるときには、そんなに厳しく見なくても良いのにと思う。ところが、他者が罪を犯したときには、徹底的に糾弾し、立ち上がれないまでに打ちのめす。これが罪人である。そのような人は、光ではない。闇である。他者のために働くこともできない。塩であることもできない。それが罪人であるならば、我々人間は、光でも塩でもない。ところが、イエスはこの世で「罪人」と見られていた多くの人たちを前に、今日の言葉を語り給うた。もちろん、その人たちが罪人ではないわけではない。それにも関わらず、イエスは「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」とおっしゃる。この宣言の言葉を聞いた者が、聞いた言葉に従って生きるとき、「地の塩」、「世の光」として生きる。それがイエスの言葉である。イエスの言葉に素直に従うとき、あなたの働きは「美しき働き」である。
自分を卑下してはならない。イエスがあなたは美しいとおっしゃるのだ。自分を否定してはならない。イエスが肯定しておられるのだ。「あなたは地の塩である」と。「あなたは世の光である」と。これは肯定の言葉である。あなたが「塩にはなれない」、「光にもなれない」と思っても、イエスがおっしゃる言葉は真実である。イエスは、嘘の、慰めの言葉を語るお方であろうか。あなたはそうではないのに、「いや、そうでもないよ。結構良いじゃないか」と慰めるだろうか。イエスは「あなたがたは地の塩に近い」とは言わない。「あなたがたは世の光のようだ」とも言わない。「である」と言う。だから、あなたは、自分を「そうである」と信じるのだ。あなたは、確かに罪人であり、闇を抱えている。それなのに、塩「である」、光「である」と言われる。罪人としての事実にもかかわらず、あなたは塩であり、光である。イエスがおっしゃるのだから、そうなのだ。
マルティン・ルターは、「キリストの聖餐」という本の中で、聖餐のパンと葡萄酒について述べている。パンとキリストの体、杯とキリストの血との違いを認めながらも、キリストの言葉によって新しい実体になっているとルターは言う。「むしろこれらのものがそれぞれ実体が異なったものであるとか、区別されたものであると言われるべきではないのである。むしろこれらのものは、二つの異なったものがそれぞれのありかたを保ちつつ単一の実体となるという一体性の意味において受け取らなければならない。」と。つまり、パンとキリストの体は、それ自体では別々のものであるが、キリストが「これはわたしの体である」とおっしゃった言葉によって、新しい一つの実体となっていると、ルターは言う。これがキリストの言葉、神の言葉の力である。新しい実体を作るのが、キリストの言葉である。それゆえに、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」。
あなた自身は、塩ではない。ただの罪人である。しかし、イエスが「あなたがたは地の塩である」とおっしゃった言葉によって、あなたと地の塩とは一つにされ、新しい実体となっている。あなたが地の塩となれないと思っても、イエスがおっしゃるとおりになっている。それは信じることによってしか、あなたの実体とは成らない。神によって創造された世界が「美しい」とか「極めて美しい」と神によって見ていただいたことを信じるとき、それは「美しい」。信じないときには、罪を犯す。アダムとエヴァは信じることよりも、自分が神のようになることを求めた。それゆえに原罪が入り込んできた。
あなたがたは「地の塩」である。あなたがたは「世の光」である。他者のために働くことができると、イエスはおっしゃっている。どのようにすれば、そうなれるのかではない。イエスがおっしゃっているのだから、誰が何と言おうとも、わたしは「地の塩である」と信じる。わたしは「世の光である」と信じる。それだけである。信じたことに従って、あなたは塩として生きる。光として生きる。神の言葉の力によってそう生きるのだ。
そうであっても、我々が信じることができなくなることも起こる。そのために、イエスは週毎にみことばを語ってくださる。ご自身の体と血に与る聖餐を設定してもくださった。あなたが魂と体で、イエスの言葉を受け取り、信仰を持って生きていくために、イエスはご自身を与えてくださる。礼拝は、このイエスの言葉によって、あなたが新しい実体とされるためにあるのだ。イエスの魂と一つとされる聖餐を通して、あなたは信じる者として形作られる。感謝して、いただき、キリストの言葉の力に与ろう。あなたがたは地の塩、世の光である。
祈ります。

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