「然り」

2020年2月9日(顕現節第6主日)
マタイによる福音書5章21節~37節

「あなたがたの言葉は、然りは然り、否は否であれ」とイエスは言う。「否を否とすること」も「然りを然りとすること」と同じである。イエスは「然り」を生きるようにと語っておられる。では、「然り」とはいったい何か。
ギリシア語では、「ナイ」であるが、この言葉は「はい、そうです」という意味である。英語では「イエス」、ドイツ語では「ヤー」、フランス語では「ウイ」。これらの言葉は、語られたことを肯定する意味で用いられる。「然り」という文語も同じである。否は否定なので、肯定すべきものではないという意味であるが、肯定すべきものを肯定している者が言う言葉である。従って、「否」を言う人は「然り」を知っているということである。「否」と言えないとすれば、「然り」とすべきものが分からないのである。「然り」も「否」も「然り」から導き出される言葉である。それゆえに、イエスは「然り」を「然り」とするならば、「否」は「否」となるとおっしゃったのである。
「然り」を知っている人は「否」を言える人なのだが、「然り」を知っていながら「否」と言わない人も多い。自分に都合が悪いと「然り」だと分かっていても「否」だと言ってしまう。これが罪人の言う言葉である。それゆえに、「これらのことを越えて溢れるものは、悪から生じている」とイエスはおっしゃる。「然り」を「否」と言うことも「悪から生じる」。「否」を「然り」と言うことも「悪から生じる」。「否」は「否」と言わねばならない。「然り」は「然り」と言わねばならない。それを越えて溢れるものは「悪」なのである。この「悪からのもの」は、我々のさまざまなところで生じている。それが「怒り」であり、「姦淫」であり、「誓い」であるとイエスはおっしゃっている。
「怒り」によって、我々は自分を「否」と言えず、自己弁護して、「わたしが正しい」と言う。自分を批判する者を「愚か者」と罵り、「馬鹿」と言う。このように言う言葉によって、さらに自分のうちに怒りが増幅する。こうして、我々の心は地獄の業火に焼かれるかのようになる。「馬鹿」、「愚か者」という言葉が、我々の心の悪に火を付けるかのようである。このようになるとき、我々は「然り」を否定してしまう。相手が正しいことを言っていると分かっていても、怒りによって、相手を否定し、貶めることで、自分を保とうとする。こうして、我々は罪人として生きる。
また、姦淫をした者を批判するときも同じである。自分自身は姦淫していないと思う。ところが、イエスが言うように、心の中で姦淫することが起こっている。先の「馬鹿」や「愚か者」という心も、殺害と同じだとイエスは言うのだから、心の中で思っただけでも姦淫なのだとおっしゃる。それなのに、実際に姦淫した者が悪で、わたしは善だと思おうとする。わたしも同じ穴のムジナ、同じ心がわたしにもあるとは思いたくない。いや、自己否定できない。それは、自己肯定できていないからである。自分自身を否定できないということは、肯定できていないのである。なぜなら、悪い自分を悪いと認めることが真実な意味で自分を認めることだからである。罪深い自分を受け入れることができないがゆえに、他者を批判し、自分は同じではないと思いたい。真実に自己肯定している者は、自分の罪を認めても自分を失うことはない。自分自身を否定できる者は、自分自身を生きている者である。否定できない者は、自分自身が分からない者である。
我々が、自分自身を生きるということは、罪深い者である自分を受け入れて、神に祈るということである。罪深い自分を受け入れてくださっている神に助けを祈る。わたしの髪の毛一本にまで目を注ぎ、すべてを支配しておられる神に祈る。その人は神によって支配され、守られている自分を知っている。罪深い自分であろうとも受け入れて、守ってくださるお方を知っている。そのような人は、神によって自分を肯定し、罪を認める。「然りではないわたしを受け入れてくださるお方は然りである」と認める。こうして、神を「然り」とし、自分を否定して「否」とする。
このような人は「然り」を「然り」とするのだから、「誓う」などということはない。「誓い」を立てるということは、「これこれのことをやり遂げますから、神さま願いを実現してください」と、交換条件を出して、神の恵みを獲得しようとすることである。こうして、自分が誓ったことを実現できると神の前に誇る。これが罪であることは明らかである。なぜなら、神の力を祈り求めることなく、神の前に自らの力を誇示するからである。誇示しなければ「誓い」を果たしたことにはならないからである。我々は「誓い」によって、神の力を否定する。これは神の「然り」を自分の力で否定することである。
我々人間は、自らを肯定できないがゆえに、「神のようになろう」として罪を犯した。原罪は、「然り」を受け入れない。「否」を「否」と言えない。神が食べてはならないとした「否」を「然り」に変えてしまったのが原罪である。原罪は、「否」を「然り」と言い、「然り」を「否」と言う。これが蛇によって喚起された「悪」から生じたと聖書は語っている。このような悪に促されている我々人間が、「然り」を生きることができるのであろうか。
我々が「否」を「然り」としてしまうのだとすれば、我々は「然り」を生きることはできない。自分に都合の良い「然り」を造り出すだけである。しかし、「然り」は一つだけである。神の意志だけが「然り」であり、我々人間の意志は「悪」である。つまり、我々は自らの意志を「否」と否定しなければならない。否定したところから「然り」を生きるために、神に祈り求める。神の助けを祈り求める。この助けは、すべてを否定されたイエス・キリストの十字架から来たる。キリストは人間の「然り」を否定するために、十字架を負ってくださった。人間が「否」であることを確定するために、復活された。イエス・キリストの十字架と復活が「然り」を「然り」とする神の言葉である。
我々が「然り」を生きるために、キリストの十字架を仰ぐ信仰が与えられている。なぜなら、信仰とは神への従順だからである。神に従順であることが、神の「然り」を「然り」として生きることである。神の「然り」を生きるためには信仰が必要である。信仰とは、ヘブライ語でエムナーと言う。それは「アーメン」と同根の言葉。「真実」エメトとも同根の言葉である。信仰は、神の為さる業に対して「アーメン、そのとおりです」と従う。信仰は、神の為さる業を「あなたのエメト、真実です」と受け入れる。信仰は、神を信頼する力。信仰は、神ご自身が然りであるように「然り」だけがこの世に生じることを信じている。従って、自分に都合の悪いことも神の「然り」だと受け入れる。自らが罪人であることも神の前に「然り」であると告白する。こうして、自己否定しながら、自己肯定しているのが信仰である。
自己否定しながら、自己肯定している者は「溢れる」ことはない。越え出ることはない。思い上がることもない。謙虚に、自らを神の言葉の下に置く。神の言葉がわたしを守ってくださると信頼し、神の前に真実の自分で生きる。罪深さを隠すことなく生きる。罪深いわたしを助けてくださいと祈りつつ生きる。これが「然り」を「然り」として生きるキリスト者の生き方である。
イエスは、みことばをもって、我々を「然り」へと導いてくださる。あなたがたが聞くイエスの言葉は、ことごとく「然り」である。「否」となることのない言葉。偽善を造り出すことのない言葉。この言葉に聴き従う者は、「然り」であるキリストと一つにされる。マルティン・ルターが言うように、「キリストは一切の宝と祝福とを持っておられるが、これらは魂のものとなり、魂は一切の不徳と罪とを負っているが、これらはキリストのものとなる」ということである。我々が「然り」を生きるために、ご自身を与えてくださったキリストがあなたのために生きてくだる。神の「然り」を生きる信仰を与えてくださるキリストの言葉があなたのうちに宿りますように。
祈ります。

Comments are closed.