「父の子の完全」

2020年2月16日(顕現節第7主日)
マタイによる福音書5章38節~48節

「あなたがたは完全な者たちであれ。あなたがたの父が完全であるように」とイエスは言う。「あなたがたの父」、つまり天の父なる神が完全であるのは当然である。しかし、我々人間は不完全である。いくらイエスが「完全な者たちであれ」とおっしゃっても、我々が完全になることはできない。完全になることができるならば人間ではなく、神である。人間と神とは違う。しかし、イエスは「あなたがたの父」だとおっしゃる。神が父であるならば、我々も成長すれば神になるのであろうか。そんなことはない。イエスは、神さまを父のように考えなさいとおっしゃったのであろう、と誰もが考える。親しみある父、慈愛に満ちた父のように、あなたがたを守ってくださるのが神なのだと、イエスはおっしゃっているのであろう、と誰もが思う。だから、悪人であろうとも、善人であろうとも神は一人ひとりが可愛いのだとおっしゃるのではないのか。義人であろうと不義な人であろうと、神は分け隔てなさらないとイエスはおっしゃる。子がどんなにワルであろうと、愛しい息子、可愛い娘なのだ、神にとってはとおっしゃっているようである。イエスの言葉は、神を父のように思い、父の子であるように生きなさいということではないか。しかし、イエスはこうおっしゃっている。「あなたがたの父が完全であるように、あなたがたは完全な者たちであれ」と。それは、完全になれということではない。「あれ」ということは、「ある」ことを認めて生きよということである。
神が天地創造の初めに、「光あれ」とおっしゃったとき、「光」は「光である」ようになった。光ではないものが光になったのではない。「光」は最初から「光」である。しかし、神が「光あれ」とおっしゃった言葉に従って、「光である」ことを生きるようになった。「光である」ことは光だから、分かっていそうなものだと思うが、「光」が「光である」ことを生きるために、神が「光あれ」とおっしゃったのである。それまで「光」は「光である」ことを知らなかった。「光である」のに、自分が「光」であることを知らなかった。言われて始めて「光」なのだと「光である」ことを生きるようになったかのようである。自分が「光」と呼ばれる存在だとも知らなかったのか。しかし、「光あれ」と言われて、その言葉を聞いたとき、「光」は自分が「光である」ことを自覚し、「光」として生きるようになった。
そうであれば、我々人間は皆「父の子である」ことは神にとっては自明のことだということになる。この自明性を知らないままに生きている人間に向かってイエスは言う。「あなたがたは父の子であれ」と。「父の子である」のだから「父が完全であるように、完全である」とおっしゃっているのだ。「父の子である」自覚のうちに生きる者は、人間であろうと「神の子である」ことを生きることができるということである。それはどういうことであろうか。
我々が人間であることから「父の子である」ことへと変わりうるのかと思ってしまうが、イエスがおっしゃるのだから変わりうる。いや、我々はイエスの言葉を聞いた瞬間から「父の子である」ことを生きることができる。人間であることを離れて、神の子であることを生きることができる。そのためには、イエスの言葉を神の言葉として聞かなければならない。イエスがおっしゃった通りにすべてが生じるのだと聞かなければならない。わたしには「父の子である」資格などないと思っても、「父の子である」ことは消えない。あの放蕩息子がどれだけ放蕩の限りを尽くして、全財産を失ったとしても、「父の子」であることに変わりはなかったことと同じである。彼も自分を見失っていた。我々も自分を見失っている。人間は「父の子」として造られたことを自分から捨てた。放蕩息子も捨てた。しかし、父の方は捨てていない。父が生きている限り、息子は息子。我々が罪を犯して、父の子であることを捨てても、神は父であることを捨ててはおられない。それゆえに、イエスは「あなたがたは父の子であれ」とおっしゃる。我々が捨てても捨てていない父がおられるのだ。だから、「父の子であれ」と。
我々人間は、神のようになろうとして、神の子であることを捨てたのだ。しかし、神は我々を見捨ててはいない。我々が自らの愚かさによって父の子であることを棄て去ったとしても、「父の子である」事実は失われない。「父の子である」自覚を我々に新たに起こし給うのは、聖霊である。聖霊が与えられるとき、我々は「父の子である」事実を思い起こし、「父の子」として生きる者とされる。だとすれば、洗礼によって、神の子とされるということは、最初からそうである「父の子である」ことを回復されることである。イエスの言葉を聞いて、聞いたように生きる存在には聖霊が与えられている。聖霊がわたしを、父の子であることをまっすぐに生きる者としてくださる。それだけである。そうであれば、我々は「父の子の完全」をすでに持っている者として生きるのである。
そう思おうということではない。そのように考えてみようということでもない。そうであると信じて生きることである。従って、「父の子の完全」は我々が「父の子である」ことを受け取ったときに完全に現れる。あなたが欠けある人間であろうとも「父の子である」ことを生きる。あなたが罪深い者であろうとも「父の子である」ことを生きる。あなたが悪人であろうとも「父なる神の子である」ことを生きる。あなたが善人であろうとも、それだけでは「父の子である」わけではない。善人であることで、神に認めてもらおうと思うからである。義人であることで、神がわたしを受け入れてくださると思う者も同じ。我々が良い子、正しい子であるから、親が受け入れるのではない。正しい子だけを自分の子とするということはない。悪い子であろうとも、わたしの子と受け入れているではないか。親が子を受け入れるためには、悪人であろうと善人であろうと関係ないのだ。自分が生んだ子は自分の子なのだから。
それゆえに、イエスは我々が父から生まれた父の子だとおっしゃっていることになる。イエスだけが真実の父の子であって、我々は養子だとしても、養子であることは我々が決めることではない。父が決める。父が決めて、受け入れている。養子でも、父の子である事実は、父の側には厳然とある。父がそう決めるならば、そうなのだ。「あなたがたは完全であれ。あなたがたの父が完全であるように」とイエスがおっしゃっているのだから、そうなのだ。我々は父の子であることを受け入れるだけで良い。それだけで、我々は父の子。そして、完全である。
罪深くとも完全である。父の子だからである。父の子である事実が、我々を造り替える。我々が父から離れていたとしても、今は父の子である。我々が神を捨てたとしても、今は神の子である。神の子である事実は、我々に与えられている事実であることを受け入れるだけなのだ。洗礼を受けるということは、そういうことである。洗礼を受けて、父の子として養子縁組をした者たちが、キリスト者である。キリストの魂と一つとされた者である。キリストの持っておられる父の子である事実を我々は生きる。我々の父の子である事実は、キリストの事実が我々に転化された事実なのである。それゆえに、キリストだけが言える、「あなたがたは父の子である」、「あなたがたの父が完全であるように、完全であれ」と。それはこうおっしゃっているようである。「あなたがたがわたしと一つとなることで、父の子である事実をわたしはあなたがたに与える。」と。イエスが「あなたがたは父の子である」という事実を与えてくださるお方。このお方を信じる者は、このお方の言葉を信じる。このお方が語られたように生じる。「父の子の完全」を生きるように生じる。そのように語るお方が、ご自身の体と血を我々に与え給う聖餐は、我々が「父の子である」ことを生きるための天の食べ物、天の飲み物。キリストのいのちを与えられる食事。キリストのいのちがあなたのうちに入り来たって、あなたに与えられている「父の子である」事実を生きる力を与え給う。キリストがおっしゃったとおりにすべては生じる。感謝して、聖餐に与ろう。父の子の完全を生きるために。
祈ります。

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