「存在の声」

2020年2月23日(主の変容主日)
マタイによる福音書17章1節~9節

「彼に聞け」と天からの声が聞こえた。「彼に聞け」とは、「彼」という存在に聞けということである。彼、イエスという存在が語る声に耳を傾けることを神は求められた。見えるものではなく、見えない存在の声に心向け、聞くようにと神は求められた。
我々人間は、見えるもの、現象として現れているものに目を向け、心を奪われてしまう。我々の目に見えるものに心を奪われる。説教を聞くときも、誰かが途中から入ってくれば、そちらに目を向けてしまう。心も向けてしまう。そして、聞くべき言葉を聞くことがない。これが我々罪人の問題である。
我々の始祖も見えるものに目を奪われ、心を奪われた。食べるように唆していた禁断の木の実を見て、食べてしまった。彼らが神の言葉に聞き続けていれば、罪に陥ることはなかったであろうに。このアダムとエヴァの罪を、我々は受け継いでいる。それゆえに、見えるものに誘われ、耳を奪われ、心奪われてしまう。こうして、我々は神の言葉から耳を塞いでしまうのである。
同じように、見えるものに心奪われたペトロたちに、天からの声が言う。「彼に聞け」と。見えるものは過ぎ去る。見えなくなれば、忘れてしまう。ただ一人残された「彼」イエスに聞くならば、イエスの存在の声に促され、イエスの在り方に従う者とされるであろう。それは神の愛する子としての在り方である。天からの声が言うように、イエスの在り方は「この者は、愛するわが息子。彼のうちで、わたしは喜ぶ」と神が語り給う存在である。彼に聞く者は、見えるものに惑わされることなく、彼と同じ在り方で生きることになる。彼に聞く者は、イエスと同じように、神の愛する息子、娘。神があなたのうちで喜び給うように生きる。それだけが、神が求めておられることである。それだけが、神が喜び給うことである。
このように生きることから我々を妨げているのは何か。原罪である。我々のうちに住んでいる罪が、我々を見えるものに縛り付ける。罪によって、我々は神の子の在り方から離れ、悪魔の子のような在り方になってしまった。それが、ペトロがイエスに申し出たようなことを求める在り方である。仮小屋や記念碑を建て、自分が見たことを留めようとする。しかし、現象は現象であって、留まることなく過ぎて行くもの。それを留めても意味はない。我々は、今を生きるのであって、過去の記念を生きるのではない。新たな世界は、過去を捨ててこそ、開かれる世界。過去に縛られているならば、我々は過去と共に過ぎ行くだけ。
過去だけではなく、我々を縛るものは多い。このようにしたいという我々の願いや希望も我々を縛る。我々の思い通りにならないことに不満を感じ、無理にでも思いを通そうとする人間。それが罪であることを知らない。過去を捨て、日々新たに生きることができない人間。自分で自分を縛っている人間。これが我々罪人である。端から見れば、愚かと思えるが、自分のことになると周りが見えず、理性が働かない。罪人の理性は正しく働かない。それゆえに、イエスは「自分を捨てて、自分の十字架を取って、わたしに従いなさい」とおっしゃったのだ。
我々は自分を捨てなければならない。自分の罪の理性を捨てなければならない。経験や慣習に縛られている罪の理性を捨てなければならない。これを捨てられない人間に対して、イエスは戒める。「見たことを誰にも言うな。人の子が死者たちから起こされるまで」と。「見たことを言う」ことによって、「見る」ことに捕らわれてしまう。見ることではなく、聞くことが重要なのだ。しかも、イエスという存在の声に耳を傾けることが重要なのだ。天からの声が言う「愛するわたしの息子」として生きるために、「その人のうちでわたしが喜ぶ」存在として生きるために、我々は存在の声に耳を傾ける者でありたい。
我々が神の子であることは、神の愛を受け取っているときである。わたしのうちで神が喜んでおられると信じるときである。そのとき、我々は神の子として生きている。神の子の在り方で存在している。この存在を誰も揺るがすことはできない。悪魔さえも揺るがすことはできない。神の喜びがわたしのうちにあるのだから。神の愛がわたしを包んでいるのだから。あなたは、神の愛する子、神の喜び。神があなたを造り、造ったことを喜び、愛しておられる。この愛の中で、我々は神の子として生きることが可能となる。それを可能とするのは、神の真実の息子イエス・キリストである。
イエス・キリストとわたしの魂が一つとなるとき、我々のうちでキリストが生きている。使徒パウロがガラテヤの信徒の手紙で語る事態が生じる。「しかし、もはやわたしは生きていない。しかし、わたしのうちに生きている、キリストが。しかし、今、わたしは肉において生きているが、わたしは生きている、わたしを愛し給う神の息子、わたしのためにご自身を引き渡し給うたお方の信仰のうちに」という事態がわたしに生じる。この事態が生じるために、我々にはキリストの信仰が与えられている。キリストの信仰。キリストが生きている在り方であるキリストの信仰が、我々に与えられ、我々はキリストの信仰のうちに生きる。その信仰を与えるのが、神の言葉、キリストの言葉、「彼に聞け」と神がおっしゃるイエスというお方の存在の声である。
イエスというお方の存在の声は、あの十字架において聞こえている。そして、聖書の中に響いている。聖書は、キリストの十字架を指し示し、キリストの十字架の在り方こそ真実のいのちであることを語っている。キリストの十字架がキリストの存在の声である。十字架の言葉は滅んでいる者には愚かであるが、救われている我々には神の力であると、パウロが語る通りである。十字架の言を聴く者は、聖霊を与えられて、耳を開かれた者。イエスの存在の声に聞く者。耳を開く聖霊の働きによって、我々は神の子の在り方を自らの在り方として生きることができる。聖霊が、あなたを神の子として生きるようにしてくださる。
この聖霊をいただくには、神の言葉を聞き続けることである。聖霊は、神の言葉と共に働くとマルティン・ルターが言うとおり、神の言葉を聞き続けることによって、我々のうちに聖霊が働く。聖霊によって、イエス・キリストの存在の声を聞く耳が開かれる。開かれた耳は、身体的な耳ではない。神の事柄を聞く霊的な耳である。霊的耳が与えられ、開かれることで、我々は神の言葉をまっすぐに聞くことができるのである。
霊的耳が閉じてしまうこともある。それは、我々が身体的耳に惑わされるときである。身体的な目に支配されてしまうときである。そのとき、我々は再び見えるものに頼ってしまう。見えないものが永遠であることを忘れてしまい、見えるものが永遠であると思い込んでしまう。それゆえに、我々は自らの耳を信じてはならない。自らの目を信じてはならない。自らの罪深い肉の体に支配されてはならない。そのためにも、神の言葉を聞き続けることが必要なのである。
あなたを愛しておられる神は、あなたが罪の体に支配されないようにと、語り続けてくださっている。この言葉を聞く者は、イエスの存在の声を聞く。イエスの存在が語る神の意志を聞く。十字架の言葉が語る神の力を信じる。信仰によって、我々は神の子として生きて行くことができる。罪の子として生まれた我々が、しかし神の子として生きることが可能となる。そのために、キリストは十字架を負ってくださった。このお方が我々のために獲得してくださった功績によって、我々は罪深くとも、罪赦された者として生きることができるのだ。
あなたを愛して、ご自身を献げられたイエス・キリストの恵みがあなたの上に注がれている。このお方の在り方があなたの在り方となりますように。このお方があなたのうちに生きてくださいますように。このお方があなたの魂と一つとなってくださいますように。あなたは愛された者。神の子。救われている存在。神の言葉、存在の声を聞き続ける者として生きて行こう。
祈ります。

Comments are closed.