「神の御手の中で」

2020年3月1日(四旬節第1主日)
マタイによる福音書4章1節~11節

「そのとき、イエスは聖霊によって、荒野へと場所を移された、悪魔から試されるために」と最初に記されているように、イエスの荒野の誘惑と呼ばれる出来事は「聖霊による」出来事である。つまり、悪魔から誘惑され、試されることも、聖なる霊、神の霊の働きだと述べられているのである。ということは、この世の如何なる悪も神の出来事である。如何なる悪が行われようとも、神は支配しておられる。それゆえに、すべては神の御手の中で起こっている。そこから漏れることは何もない。ただ、神の言葉に留まる者だけが神の御手の中に留まると、イエスの出来事は語っている。
これが我々人間には困難なことである。なぜなら、我々は自分の力で、自分の意志で、自分にとって良い方へとすべてを進めようとするからである。イエスは、自分を捨てて、悪魔の誘惑を受けた。自分を捨てているのだから、イエスご自身が悪魔に試されることはない。誘惑されることはない。自分を捨てるということは、神の言葉の上に立つということである。神の言葉だけがわたしを生かしてくださると信頼することである。神の言葉とは、世界を創造した言葉。出来事となる言葉。いのちのことば。このことばの上に立つ者は、イエスと共に神によって受け入れられ、神の子として生きて行くであろう。なぜなら、今日の日課の最初にこう言われているからである。「そのとき」と。
「そのとき」とは、この箇所の前に起こった出来事の「そのとき」。3章の終わりには、イエスの受洗に際して聞こえた天からの声が記されている。「この者は愛すべき者、わたしの息子。彼のうちで、わたしは喜ぶ」という声である。これが「そのとき」である。つまり、イエスが天の父の愛すべき息子であり、そのうちで父なる神が喜ぶと言われたがゆえに、聖霊による荒野への移動が起こった。悪魔による試しのための移動が起こったというのである。イエスが神の愛すべき息子、神喜び給う存在であるという神の言葉が語られたがゆえに、聖霊によって悪魔による誘惑が生じた。神の御手の中で、神に愛されているがゆえに、悪魔の誘惑は起こったのである。これが神と悪魔との関係であり、神の子に起こるべき必然的な出来事が誘惑、試しなのである。従って、イエスの誘惑は、神に愛されているがゆえに起こったということである。
神に愛されている者は悪魔に狙われる。あのヨブもそうであった。神がヨブを喜んだがゆえに、悪魔はヨブを試すことを願い出て、許された。神が喜ぶ存在は悪魔にとって鬱陶しい存在。それゆえに、悪魔は神から引き離すことを願う。一旦、神を否定したかに思えたヨブも、最終的には神の言葉の前にひれ伏す信仰を与えられ、救われた。悪魔の誘惑は、神の愛の対象に向かうが、悪魔は何一つ手出しすることができない。神に愛されていることを知っている存在は、自分が如何に罪深くとも神が愛してくださっていると信じている。また、自らの弱さを知っている。それゆえに、その人は決して揺らぐことなく、神に信頼して生きる。自分の力を捨てているからである。罪人の理性を捨てているからである。
このような人は、イエスと共に、神の言葉にだけ耳を傾ける。自分の思い、自分の願い、自分の計画には悪しきものが生じていると知っている。そのようなものは絶対ではないと知っている。刹那的な、虚しいことを離れて、ただ神の出来事だけに従う。それが神喜び給う人。神に愛されていることを知っている人。神の御手の中で生きている人。この生き方をイエスは最初に示してくださった。それが荒野の誘惑である。
荒野とは言え、最初の食べ物だけは実際の荒野であろうが、あとは神殿と世界である。つまり、荒野はこの世のあらゆるところにあるということである。この世界が悪魔の誘惑場所である。この世が、神の子が神の子として生きる場所であり、誘惑が生じる場所である。悪魔はこの世という荒野の中で誘惑している。この世で生きることは、悪魔の誘惑にさらされながら生きることである。そのとき、イエスが悪魔から問われたように、「神の子であることを示せ」という問いが発せられる。あなたが愛されているならば、あなたのために神が働いてくださるであろうという問いである。この世で、悪しきことや苦しみに遭遇することは、あなたが神の子ではないということではないのかと。あなたが愛されていないということを示しているのが、この世の災難や苦難ではないかと。これが悪魔の誘惑である。
これらの問いに対して、イエスは神の言葉だけで答えている。「神の口を通して出てくる語られた言葉の上に、人は生きる」、「あなたの神である主を試してはならない」、「あなたの神である主にひれ伏し、彼にだけ仕えよ」と。これらの言葉は、神が人間に対して語られた言葉である。最初に言われているように、我々は神の言葉の上に生きる。それは、神の出来事の上に生かされているということである。神の出来事は、神の支配の結果。それゆえに、あらゆる出来事は神の支配を現し、神の出来事として生じている。この出来事を自分の力で変えようとするとき、我々は神から離れてしまう。それゆえに、イエスは石をパンに変えることはしなかった。空腹ならば空腹で生きる。空腹を楽しむ。それが神の子であるとイエスは答えたのである。
空腹というのは欲望である。満たしたい、満たされたいという欲望が空腹である。しかし、神は我々に必要なものを与えておられる。それゆえに、空腹のときは空腹に生きる。満腹のときも満腹に生きる。ただそれだけが神の子の生き方である。これを越えるとき、我々は自分で自分の空腹を満たそうとしている。自分の欲望を自分で満たそうとしている。それゆえに、神の出来事を自分の出来事としている。これが罪である。
神の守りも、神が守り給うのであって、神の守りを自分で確認する必要はない。自分で確認しようとするとき、我々は神を離れ、神の外に立ってしまう。神は守り給うと信頼して生きるとき、如何なることがあろうとも必ず神の守りがある。それだけなのだ。
この世の富、この世の権威、この世の支配は、究極的に神の支配である。これを自分の富、自分の権威、自分の支配にしてしまうとき、我々は神の子ではない。神の支配を自分の支配に変えてしまうのだから、神の敵対者である。このような生き方も罪の生き方。貪欲な生き方である。
神の御手の中で、我々は愛され、育まれ、守られている。これだけが我々が信ずべきことである。これは信ずることであって、確認することではない。確認は信仰ではない。信仰は、確認できなくとも信じる。今現れていなくとも信じる。今苦しくとも信じる。この信仰に生きることが、今日イエスが我々に語っておられることである。「あなたの神である主にひれ伏し、彼だけに仕える」ことが、我々が人間として生きる道である。それは、我々の罪を認めて、神の前にひれ伏すことである。神を捨ててしまう罪を認めることである。我々がこの罪を認めるとき、我々は神の前にひれ伏し、神だけに仕える者とされている。
神だけに仕えるという言葉で使われているラトレウオーという言葉は、特定の主人に身を献げて仕えることを意味している。つまり、神にすべてを投げ出して、身を献げて生きること。これが神の子の生き方である。神の子とは、神がわたしを愛してくださっているということにすべてを投げ出して信頼する者である。すべては神の御手の中で起こっていると信頼することである。それゆえに、如何なることにも神の意志が貫徹されていると信じる。如何なることも神の御手の中にあると信じる。だから、何も心配することはない。神がすべてを良いように完成してくださる。この生き方をあなたに与えるために、イエスは十字架を負ってくださった。そして、ご自身の体と血を与えて、あなたのうちに神の子の姿が生じるようにしてくださった。この四旬節、神の子の生き方を求めて歩み行こう。我々の歩む道に苦難があろうとも、神だけを信じて進み行こう。あなたは愛されているのだから。神の御手の中で生かされているのだから。
祈ります。

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