「無知に仕える方」

2020年3月8日(四旬節第2主日)
マタイによる福音書20章17節~28節

「あなたがたは知らない、あなたがたが何を願っているかを」とイエスは言う。知らないことを願っていると言う。これはどういうことであろうか。我々人間は、自分の思いから願うものである。しかし、自分が願っていることの本質を知らずに願っているとイエスは言う。二人の弟子たち、そして母親たちも自分が願っていることが何を意味しているのかを知らないのである。我々は自分のうちに起こった思いに対する無知を知らない。自分の無知に対して、無知なのが我々人間である。どうしてなのだろうか。
我々が願うことは、知らないことである。知っているならば、願うことはない。知らないがゆえに、願う。そして、願いの本当の意味を知らないで願う。自分のうちに起こってきた願いが何を意味しているかを知らないということは、我々が自分自身の思いに無知だということである。自分を知らない。自分の思いを知らない。それゆえに、我々は自分の思いに振り回される。揺さぶられる。アダムとエヴァ以来、我々人間は自分が何を願っているかを知らない。それが罪であると知っていたならば、願わなかったであろうし、行わなかったであろう。知らないということは恐ろしいことである。
二人の弟子たちも、イエスがおっしゃるように「あなたがたは知らない」のである。何を願っているかを知らない弟子たち。それが罪である。それゆえに、イエスは他の弟子たちも含めて「仕えること」を命じる。ところが、この仕えることの困難を我々人間は抱えている。なぜなら、仕えることを純粋に生きることができないのが罪人だからである。仕えた結果、イエスの右と左に座ることができるのではないかと考える。そこまで行かなくとも、イエスに認めてもらえる、神に認めてもらえると考える。そのために、懸命になる。そして、他者の足を引っ張る。他者に抜け駆けする。他の弟子たちが腹を立てたように、抜け駆けは卑怯だと我々は思う。争いはそこから生まれる。このような人間が純粋にイエスに従うことができるのであろうか。イエスがおっしゃるように、「一番先になりたい者は、奴隷であれ」と言われると、奴隷になれば一番先になることができるのだと考える。奴隷なのだから一番先にはならない。一番後になる。
誰でも一番になりたい。すべての人から認められたい。多くの者に仕えられたい。しかし、イエスは「人の子が仕えられるためではなく、仕えるために来たのと同じように、そして、多くの人を身受けする贖い金として自分の魂を与えるために来たのと同じように」と言う。自らの主であるイエス・キリストが仕えるお方として来たのだから、その支配の下に生きる我々もキリストと同じように仕えるのである。すべての者が仕えるのであれば、すべての者が奴隷であり、誰も一番にはならない。一番は主イエス・キリストのみである。しかし、イエスが主として支配する仕方は、奴隷である我々に仕えるという仕方で仕える。これがこの世の支配者とは違う支配である。神の支配は、この世の支配者の在り方とは反対であるとイエスはおっしゃる。従って、誰かを支配したいと思うならば、支配する在り方を変えよと言う。仕えるという在り方で支配せよと。ところが、仕える者は支配することはない。唯一支配し給うのは、イエス・キリストのみ。イエスは我々に仕えることで、仕える者たちを生み出すという支配を行う。これがキリストの支配、神の支配である。
しかも、無知な弟子たちに、無知な我々に、イエスは仕えてくださる。何を願っているかを知らない我々に仕えるお方がイエス・キリストである。知らないという無知を憐れみ、願うべきは何であるかを教える。二人の弟子たちの願いは、実は仕えることを願ったのである。しかし、本人たちは支配者になることを願ったと思っている。彼らの願いに対して、イエスがお答えになる言葉、「わたしがそれを与えるのではない。むしろ、わたしの父が整え給う者たちに、与えられる」という言葉が指し示しているのは、仕えることは父が整えてくださって可能となるということである。
父が整えてくださることで、我々は仕えることを生きることができる。父が整えてくださらない限り、我々は仕えてもらうことを願い、そのように働くからである。父によって整えられた者たちは、仕えられるために働くことはない。純粋に、イエスの奴隷として、イエスに従って、仕える。仕えたことを自分の功績とはしない。このようになるには、父の整えが必要である。父が整えるとはどのようにして整えるのであろうか。さまざまな苦難を通して、仕えることを学ばされた者が父によって整えられた者たちである。イエスと同じように、苦難を引き受け、受難して生きる者たちである。そのような者たちは、仕えられることを求めることはない。仕えることを喜びとする。それが神の前にひれ伏している者の姿。他者に仕える喜びに生きる者。キリストがわたしに仕えてくださったがゆえに、わたしは喜んで人に仕えようと生きる者。このような人をキリスト者と呼ぶのである。
だとすれば、我々は未だキリスト者とはなっていない。イエスに仕えていただいたにも関わらず、未だキリスト者とはなっていない。洗礼を受けたにも関わらず、未だ罪の中に生きている。完全にキリスト者にはなっていない。それは仕方ないことである。使徒パウロがローマの信徒への手紙7章14節で言うように、我々は肉の人であり、罪に売り渡されている存在である。肉に従って生きざるを得ない。未だ、罪の肉が我々を支配している。だから「わたしが働き生み出しているものを、わたしは知らない」とパウロは言っている。知らずに罪を犯していると言う。この惨めな人間が如何にして救われるのであろうか。こうパウロは問うて、次のように結論づけている。「神に感謝、わたしたちの主イエス・キリストを通して」と。つまり、我々人間は自分で救われることはできないということであり、自分で自分を変えることもできないということである。唯一可能なお方は、神であるとパウロは言う。しかも「イエス・キリストを通して」その神に感謝すると。イエス・キリストを通してでなければ、神を知ることができなかったということである。イエス・キリストを通してこそ、我々は自分自身の無知を知り、無知から解放されて、神に感謝することが可能となるとパウロは言うのだ。これが我々の主イエス・キリストの恵みである。
無知を知ることが無知からの解放である。無知であることを知るということは、無知ではなくなっているということである。「わたしは無知です」と自ら認めることができる人は無知ではない。無知な人は、自らが無知であることを知らないで、自分には知恵があり、知識があり、賢いのだと思い込んでいる。これが、イエスが二人の弟子たちに言う「あなたがたは知らない」という無知の現実である。この現実を受け入れた者は無知ではない。イエス・キリストは無知な者に仕えるお方であり、無知を認識させるお方である。それが、イエスが我々を支配する仕え方である。このお方を通して、我々は無知から解放され、真実の自分自身を取り戻すことができる。無知で、罪深く、哀れな自分自身を認めることによって、真実の自分を生きる。もちろん、罪のままで生きるのではない。無知な者に知恵を与え給うお方を求める。罪から解放してくださるお方を求める。憐れんでくださるお方を求める。この祈り求めによって、我々は神の働きを受け取る。神は、このように我々を整え給う。そのとき、我々は神に仕えていただいている。そして、我々も他者に仕える者とされていく。神と我々との間に、キリストの十字架が立ち、神と人に仕えてくださる。神もまた、キリストを通して我々に仕えてくださる。我々は、キリストを通して、神に感謝し、他者に仕える。仕えることが行き交い、世界を満たすとき、この世界も神の平和シャロームの世界となっていくであろう。その世界を神の国と呼ぶ。
この四旬節、我々は今一度、主イエスの奉仕によって救われたことを神に感謝し、主を仰いで生きて行こう。無知で哀れな罪人をお救いくださいと祈りつつ四旬節の歩みを続けていこう。
祈ります。

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