「ひれ伏す者たち」

2020年3月15日(四旬節第3主日)
ヨハネによる福音書4章5節~26節

「なぜならまた、父はこのような者たちを探しているから、彼の前にひれ伏す者たちを」とイエスは言う。新共同訳で「礼拝する者たち」と訳されている言葉は、プロスキュネオーというギリシア語で、「前にひれ伏す」、「前に跪く」という言葉である。この言葉は、プロス「前に」とキュネオー「接吻する」とからできている言葉で、足許にひれ伏して、敬意の接吻をすることを意味している。礼拝は確かに神の前にひれ伏すことであるから、「礼拝する」と訳しても良いが、礼拝するという行為が如何なる行為であるかを理解するには、「ひれ伏す」が良いであろう。イエス・キリストの父なる神の御前にひれ伏すという行為が「礼拝」なのである。ひれ伏すことは、敬意を表すことではあるが、降参した姿である。つまり、神の絶対的力の前に降参して、「あなたにすべてを委ねます」とひれ伏すことが礼拝なのである。このような礼拝姿勢をイエスはここで述べておられる。その礼拝姿勢をもって礼拝する者を神が探しておられるのだと言う。
我々が礼拝する前に、神がまず探しておられるとイエスはおっしゃっているのだ。まず、探しておられる父がいて、我々は父の前にひれ伏す者とされる。我々が父を探すのではなく、父が我々を探し、見出し、ひれ伏す者として受け入れてくださる。それが礼拝なのである。この礼拝を父が求めておられる。父が求めるがゆえに、我々の礼拝行為は受け入れられる。受け入れてくださるお方がまずおられて、我々を礼拝へと招き、ひれ伏す信仰を新たにしてくださる。教会は週毎の礼拝を欠かすことはない。礼拝が中止されることもない。中止するとしたら、父が探しておられる行為を中止させることになる。それは信仰の行為ではない。
礼拝こそが教会が教会である現実を現す。教会は建物ではない。父なる神によって集められた者たちを教会と呼ぶのである。ギリシア語ではエクレーシアと言う。この世から呼び出されて、集められた者たちの集まりが教会なのである。しかし、集まっているから教会なのではない。集まって、何をするかが問題である。集まって、飲んで騒ぐわけではない。集まって、悔い改めの祈りを献げ、赦しの神を讃美し、神のみことばと共に働く聖霊の励ましを受けて、派遣されていく。教会は、十年一日の如く、毎週毎週これを繰り返してきた。一回であろうと休むなどということはあり得ない。たとえ、礼拝堂という建物が地震で壊れたとしても、教会は存続する。神によって集められる教会は存続する。建物がなくなっても教会は教会である。如何なる場所であろうと礼拝することができる。それが教会である。イエスは、この教会の在り方を「父にひれ伏す者たち」とおっしゃっている。
ひれ伏す信仰が与えられた者たちが「霊と真理のうちにひれ伏す者たち」、つまり「礼拝する者たち」である。このひれ伏す行為が表しているように、父の力の前に、負けを認めて、ひれ伏すことが「霊と真理のうち」に生きていることなのである。なぜなら、父なる神こそが唯一の力を持っておられるからである。我々人間の力など、如何に小さく、弱いことか。これを知らずに、人間は神にまでなり得ると思い込み、罪を犯してしまったのだ。そこには「霊と真理のうちに」生きる魂はなかった。「霊と真理のうちに」生きるということは、自らの弱さを認め、自らの小ささを受け入れ、自らの力を捨てて、ただひれ伏すことなのである。なぜなら、「真理」とは隠れなくあることだからである。
「真理」という言葉アレーテイアは、レーテー「隠れる」に否定辞アが付いた言葉である。つまり、隠れなきことが「真理」である。自らの弱さ、ちいささ、愚かさを認めることが、我々人間の「真理」である。さらに、「霊」とは、神の意志を理解させるお方である。「霊のうちに」生きているならば、神の意志の絶対的必然性を受け入れ、ひれ伏す。従って、「霊と真理のうちにひれ伏す」という言葉が示しているのは、我々が自らの罪を認め、神の絶対的力の前に降伏し、ひれ伏すことなのである。ありのままのわたしは罪人であると認めるとき、我々は「霊と真理のうちに」生きている。そして、神の前にひれ伏している。そのような者たちが起こされるために、イエスは父なる神によって派遣された。そして、サマリアの女に「霊と真理のうちに」生きることを与えた。彼女は自らの「ありのまま」をイエスに語り、認めたからである。新共同訳が「ありのまま」と訳した言葉はアレーテイア「真理」からできた副詞アレーテースである。イエスは女にこう言ったのだ。「このことを、隠れなく、あなたは言ってしまっている」と。そして、それこそが「生きている水を飲む」ことなのである。
「生きている水を飲む」者は、淀んで死んだ水ではなく、活き活きと動き、わき出すような水を飲み、その人自身のうちからも水が湧き溢れる者である。従って、その人は隠すことはできない。自分を誤魔化すこともできない。他者を騙すことなどできない。ありのままである真理だけを言う。生きている水を飲む者は、生きている水のように生きる。淀みなく流れる豊かな流れを生きる。「生きている水」がその人のうちから「永遠の命へ」と流れ出る泉となる。サマリアの女は、イエスに出会い、イエスとの対話によって、「生きている水」を与えられた。彼女自身がこれから「生きている水」の泉として生きる。
イエスは、一人ひとりのうちに、真理の泉を掘ってくださる。サマリアの女は、イエスによって、泉を掘り当てられた。あなたにも、泉の源泉がある。それを掘り当てるのはイエス。イエスは、あなたのうちにすでにある源泉を知っておられる。サマリアの女も、イエスに知られていた。「霊と真理のうちにひれ伏す者」としての源泉があることを、イエスはご存知だった。それゆえに、昼間に水汲みに来た女に声をかけた。女は、ユダヤ人であるイエスがサマリア人の自分に声をかけたことを不思議に思った。どうして、声をかけるのかと問うた。そこから、イエスとの対話が始まった。そして、結果的に、女はイエスとの対話によって、泉を掘り当てられた。
彼女が、町へ帰ってから、自分のことを言い当てた人がいると言いふらし始めたのもおかしなことである。皆から非難されていたであろう女が、猜疑の目で見られていたであろう女が、自分から他者に話す者となった。彼女は、真理のうちに、霊に満たされて語った。メシアとは、「霊と真理のうちにひれ伏す者」を起こすお方なのである。メシアとは、一人ひとりが自分を受け入れ、自分の汚れ、弱さ、愚かさ、罪深さを認めて生きるようにしてくださるお方。真実の自分自身を投げ出して、ひれ伏す者にしてくださるお方。そのとき、ひれ伏す者を受け入れ、力を与え給うのもメシアである。
メシアは、礼拝する者を造り出す。神の前にひれ伏す信仰を与え、霊と真理のうちに生かしてくださる。我々が神に受け入れられるのは、我々が隠れなく生きているとき。我々が真実の自分自身を神の前にさらけ出しているとき。弱さだけではなく、愚かさ、傲慢さ、情けなさ、苦しみ、悲しみ、痛み、罪深さを神の前にさらけ出す。そのとき、我々は「真実にひれ伏す者たち」として、父の前にひれ伏している。そして、父なる神は我々を受け入れてくださっている。父は、我々を、イエスにおいて、受け入れてくださる。そのために、イエスは十字架を負ってくださった。あなたの罪はわたしの罪と負ってくださった。あなたの傷みはわたしの傷みと傷ついてくださった。あなたの弱さはわたしの弱さと弱り果ててくださった。このお方が我らの主イエス・キリスト。イエスをお遣わしになった父なる神。聖なる神の霊が我らに注がれ、我らは父とイエスと聖霊との交わりのうちに生きる。
このようなところへと導き給うのは、イエスのみことば。聞くみことばと見えるみことば。イエスの説教と、体と血。イエスのみことばに与る聖餐を通して、イエスと同じ形に変えられていく。あなたはひれ伏す者である。あなたはキリスト者である。あなたは父なる神によって造られた隠れなきわたしを生きて行くことができる。霊と真理のうちに歩み続けよう、この四旬節を、イエスの十字架を仰いで。
祈ります。

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