「一つがすべてに」

2020年3月22日(四旬節第4主日)
ヨハネによる福音書9章13節~25節

「神の諸々の御業が、彼のうちで、覆いを取り除かれるために」と9章3節でイエスはおっしゃっていた。生まれつき目が見えない人は、誰かの罪によって見えないのではなく、神の多くの御業が彼のうちですべて彼に見えるようになるためだとおっしゃっていた。神の諸々の御業、神のすべてのお働きは、目が見えないという一つのことを通して、覆いを取り除かれる。目が見えないということから、すべてが見える状態が創造される。本日の日課の最後では、生まれつき目が見えない人はこう言っている。「彼が罪人であるかどうか、わたしは知りません。一つを、わたしは知っています。目の見えない者であったわたしが今見ているということを」と。彼は一つを知っていることによって、すべてが見えるようになった。「今見ている」という状態が神の恵みであることを知っている。イエスが罪人であるかどうかを知ったとしても、わたしの現実は変わらない。むしろ、イエスが罪人であるか否かは知る必要がない。それよりも「今、わたしは見ている」という状態こそが、すべてを開く。それは、自分自身の現実を受け入れることである。
我々は、自分の現実を受け入れるとき、自分を正しく認めることができる。自分を正しく認めるとき、世界を正しく認めるであろう。すべては神の予知と予定によって、今あることを信じるであろう。そのような認識に至ったとき、我々の世界は一変する。神の意志が絶対的に生じることを知った人は、他者がどうあろうと、自分の現実から始める。他者との比較に一喜一憂することはない。他者は他者の現実を生きている。わたしはわたしの現実を生きる。そこに立つとき、我々は立たせ給うた神、置き給うた神を知るであろう。目の見えない人は「今、わたしは見ている」という一つの認識から始めた。
目の見えなかった者が「目の見えなかったわたしが、今、見ている」と認識した。「かつては、見えていなかった」と認識した。今を認識することで、かつての真実も見えてくる。現実の認識が次々と開かれていく。見えていなかったと認識するとき、かつて見ていたものが何であったかも理解する。その世界を見せていた者たちが如何なる者たちであったかも認識する。こうして、目が見えなかったこの人は、彼を支配していた者たちから解放されていった。そして、彼は一人「外に追い出された」と日課のあとの35節には記されている。それは「投げ捨てられた」という意味である。ファリサイ派たちの作っていた世界から投げ捨てられた。しかし、イエスは、その彼を見出し、拾い上げ、救い給う。こうして、一人の人が救われた。
この人が救われるために、イエスはファリサイ派からの妬みを買うことになった。しかし、この人に出会わせたのは神であった。イエスがこの人を発見したとき、イエスはただ歩いていた。イエスは歩きながら、他にも多くの人とすれ違ったであろうが、この人を発見した。弟子たちもイエスもすれ違う他の人には心惹かれなかったが、この人に心惹かれた。それが疑問であろうとも、あるいは自分たちの幸いを確認するためであろうとも、弟子たちはこの人に目を留め、イエスに問うた。イエスは、彼らに答えることにおいて、この目の見えない人に関わることとなった。これも、神の必然である。神が出会わせ、すべてを起こし給うた。それゆえに、目の見えない人はイエスを正しく知った。「この人が罪人であるかどうかは、わたしは知りません」と答えた彼は、イエスを判断することを拒否した。ただ、自分の過去と現在を認める。それだけが、イエスを正しく知ることへと導く。いや、イエスがその現実を認めさせた。彼の目を開いて、認めさせた。これが今日彼に起こった神の恵みである。
我々もまた、イエスに発見していただいて、自らの罪を認めるところへと導かれた。罪人であるかどうかは、わたしの問題であって、他者がどうなのかはわたしが知る必要はないと認めた。他者のことは、神だけがご存知のことであって、わたしが知るべきことではない。わたしが知るべきことは、わたしの現実。わたしが認めるべきは、わたしの過去。そして、わたしの今。開かれた今という一点からすべてを見ることである。
目の見えない人を責め続けるファリサイ派の人たちは、自らを認めることができない。彼らは、自分たちは見えている、分かっていると思い込んでいる。しかし、見えていない。イエスは、この盲人の出来事の最後でこうおっしゃっている。9章41節の言葉はこうである。「もし、あなたがたが盲人であったならば、罪を持ち続けてはいなかった。しかし、今、あなたがたは言っている。わたしたちは見ていると。あなたがたの罪は留まっている」。つまり、ファリサイ派の人たちには、見ていなかったわたしが今見ているという認識が開かれていないということである。彼らは、ずっと見ていると思っている。彼らが見ているものが罪の世界であることを認識していない。それゆえに、彼らは「罪を持っている」と言われているのだ。従って、我々人間は、自分自身の罪を認識したとき、すべてが良く見えるようになるということである。
その認識を開くのは、わたしではなく、イエスである。イエスによって発見されることで、神の世界の認識が開かれる。神の世界の認識は、わたしはかつて見ていなかったという認識なのである。その認識は、一人ひとりに与えられる認識。誰かと一緒に与えられるのではない。このわたしが認識すべき世界が開かれるのだから、他の人が見ていないとしても、わたしには確かに見える世界なのである。それゆえに、目の見えなかった人の両親が言う言葉も真実である。「彼はもう大人です。彼に、聞いてください」と。大人とは、自分自身を知っている者。大人とは、自分で自分のことを述べることができる者。大人とは、ただ年齢を重ねただけではない。年齢は誰でも重ねることができる。時が経てば、誰でも大人の年齢を得る。しかし、その人が、経験した時間、過去をどのように認識するのか。それが問題なのである。
我々は、過去と現在とをつながったものとして認識しているだろうか。現在が良ければ、過去はなかったことにする。見たくない過去は忘れたい。しかし、過去を正しく認めなければ、真実に現在を生きることはできないのである。過去を正しく認める人は、現在も正しく認める。過去と現在は、すべて神が起こし給うた出来事であると認める。そのとき、我々は神の世界の中で、何一つ失われるものはないと認めるであろう。それが最後の審判の日に神の前に立つ姿勢である。
ヴァルター・ベンヤミンというドイツ系ユダヤ人は、このような言葉を残している。「さまざまな出来事を、大小の区別をつけることなくひとつひとつ物語る年代記作者は、それによって、かつて生起した出来事は歴史にとってなにひとつ失われたものと見なされてはならない、という真理を顧慮している。いうまでもなく、救済(解放)された人類にしてはじめて、その過去が完全なかたちで与えられる。」と。救済は解放であり、過去が完全なかたちで与えられることなのである。それらは何一つ失われることなく、救済の現在の中に生きている。わたしが今ここに救われているということは、わたしが経験した過去のすべての時間が、現在に集約されているということなのである。それゆえに、最後の審判の日には、我々は罪から解放されている。なぜなら、すべてが見えるようになるからである。
我々キリスト者は、現在の救いを見るだけではなく、過去の罪を認める。救われたということは、過去には救われていなかったということを認めることである。救われていなかったのは、わたし自身の罪に支配されていたからだと認めることである。そのとき、我々は過去の罪から解放されている。そして、救われている。たった一つの真理、「見えていなかったわたしが今見ている」という真理が、あなたを解放する。あなたを救う。あなたを神の恵みの下に置く。この真理のために、十字架を負ってくださった主イエスに感謝を献げよう。この四旬節をイエスに従って歩み続けよう。
祈ります。

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