「新たなる立脚点」

2020年3月29日(四旬節第5主日)
ヨハネによる福音書11章17節~53節

「彼らのうちのある人が言った。『盲人の目を開いたこの人(イエス)が、この人(ラザロ)が死なないように行うことができなかったのか』」と記されている。イエスはラザロが死なないように行うことができなかった。なぜなら、死は必然だからである。死なない人間はいない。人間は必ず死ぬ。この前提を見失ってはならない。必ず死ぬ人間であっても、「わたしへと信じる者は、死んでも生きるであろう」とイエスはおっしゃる。しかし、イエスはこうもおっしゃっている。「生きていて、わたしへと信じる者すべては、決して死なない、永遠に」と。「決して死なない」とイエスは言う。死が必然ではないということになる。どうしてなのだろうか。
死んでも生きることと、死なないこととは違う。しかし、イエスはこの二つを並列で述べている。従って、死んでも生きることが決して死なないことだと、イエスはおっしゃっているのだ。死んでしまっても生きるであろうという未来は、「決して死なない」ということなのだと言うのだ。たとえこの世の生として死んだとしても、その人は信仰において死を越えているのだから、死はその人を支配することができない。新たに生きる。それゆえに、決して死なない。死に支配されない。その人は死んでも生きるのであり、決して死に支配されることはないのである。
この世の生は死を迎える。しかし、この世の生において、信仰を与えられ、「死んでも生きるであろう」未来を生きている者は、「決して死なない」生を生きる。死の支配を越えて、復活されたイエスのうちへと身を堅くして信頼している者は、イエスの支配に服しているがゆえに、死なない。イエスと共に生きる。これが今日、イエスが我々に与え給う恵みである。
この恵みについて、イエスはこうおっしゃっている。「わたしは復活であり、いのちである」と。復活という言葉、アナスタシスというギリシア語は、「再び立つ」、あるいは「新たに立つ」という意味である。復活とは、再び立つことであり、新たに立つことである。再び、新たな立つべきところに立つことが、復活。従って、新たなる立脚点に立つことが復活なのである。その立脚点は、この世において立っていたようなものではない。この世における別の立脚点に立つことでもない。むしろ、この世を越えた立脚点に立つことが復活である。その立脚点をイエスは指し示してくださった。十字架はこの世によってもたらされた死を指し示している。復活は、この世によってもたらされた死を越えて、新たな立脚点に立ったイエスを指し示している。それゆえに、「わたしは復活であり、いのちである」とイエスは言う。復活として、新たなる立脚点に立つことを与える、真実のいのちの主がイエスである。
このいのちは復活のいのちであるがゆえに、イエスが与えるいのちはこの世とは違う立脚点に立っている。それは「死んでも生きる」、「決して死なない」という立脚点である。「死んでも生きる」ことが復活であり、「決して死なない」ことがいのちである。つまり、イエスへと信じる者は、新たなる立脚点に立たされるがゆえに、決して死なないという死の支配を越えた生を生きている。信仰とは、このような神の出来事である。
信仰のうちに、復活があり、いのちがある。イエスへと信じる者のうちに、イエスの復活が働き、イエスのいのちが生きる。それゆえに、その人は死んでも生き、決して死なない。このような信仰を与えてくださるのは、神である。この神の力によって立つことが、復活でありいのちである。そして、イエスは神の力そのものとして生きておられる。それゆえに言うのだ。「わたしは復活であり、いのちである」と。それはこうおっしゃっているようである。「わたしは新たなる立脚点に立つ者であり、わたしのうちに身を堅くして信頼する者を、新たなる立脚点に立たしめる者である。それこそがいのちなのだ。」と。神の力に包まれて、信頼している姿こそが、イエスご自身の在り方である。その在り方をイエスは我々に与えてくださる。死を越えて、死に支配されない者たちとして、生かしてくださる。そのお方がイエスなのである。
イエスは、ラザロを呼び出す。呼び出すのは「墓」からである。ラザロが葬られた墓の入口には石が置かれていた。それを取り除くように命じたイエスは「ラザロ、出て来い」と呼ぶ。ラザロは、その声に促されて出て来た。イエスが呼ばなければ、ラザロは出てこなかったであろう。イエスの呼ぶ声がラザロを新たな立脚点に立たしめた。イエスの呼ぶ声によって、ラザロは墓に眠っていなくても良いのだと、出て来た。これが今日、イエスがラザロを通して、我々に与えてくださるイエスご自身の御声である。
イエスは我々をも呼んでおられる。「出て来い」と呼んでおられる。イエスが呼んでおられるので、我々は今日ここに集められている。呼び集め給うお方が、我々の存在の中心である。我々のいのちの中心である。我々が自分のいのちを守ろうとしても、守り切れるものではない。むしろ、守ろうとして、破壊してしまうのが我々人間なのだ。今日のような状況に陥ったのも、我々人間の罪の結果である。我々人間が、この世界を破壊した結果が、我々の上に降りかかってきているのだ。それにも関わらず、我々は悔い改めることなく、自分のいのちを守ることに汲々として、他者と分かち合うことを忘れる。現在の苦難を乗り越えるために、手を携えることなく、さまざまな場所で、批判し合い、貶め合って、先を争って、自分だけを守ろうとしている。これが我々人間の罪である。
いのちは確かに大切である。いのちは、お造りになったお方のものだから大切である。我々のものではないがゆえに、大切である。「命がいちばんだと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」と星野富弘が歌ったとおりである。いのちを守る、いのちを守ると繰り返しながら、神を信頼できない人間こそ罪人である。それが、ラザロの死をあきらめていたユダヤ人たちの立っていたところ。この世の在り方そのものである。そこにいのちはない。あるのは、死がすべての終わりという観念だけである。そのような在り方に対して、イエスは憤り、ラザロを墓から呼び出す。死の支配に従っていたのは人間の罪であった。その罪を越えて、死を越えて、イエスはラザロを呼び出した。このお方の声に応える者だけが、死から呼び出される。墓から呼び出される。それがイエスへと信じる者たちである。呼び出された者たちこそ、教会である。イエスの教会。キリストの教会。神の教会。エクレーシアである。
我々は、如何なることがあろうとも、礼拝を守る。最後の一人になろうとも礼拝を守る。迫害を受けようとも礼拝を守る。かつて、ローマ帝国による迫害の最中、カタコンベにおいて礼拝を守り続けた人たちがいたからこそ、我々は今も礼拝に与る恵みを享受している。その人々は、迫害をも、ものともせず、呼び出し給うお方の声に従った。我々が、この世の声に従っているとき、教会は礼拝を止めてしまうであろう。礼拝しない教会は、教会ではない。礼拝こそが教会が教会である中心。礼拝こそが教会のいのちそのものである。
我々がたとえ死んでも生きるという信仰に生きているならば、我々は決して失われることはない。決して死ぬことはない。たとえ、この世の立脚点から外れて、死んでしまったとしても、神という立脚点に立っているのだから、決して死なない。これが、我々が信じていることである。
イエスは、我々をこの世の墓から呼び出して、新たなる立脚点に立たしめてくださる。我々のためにご自身を与えて、ご自身と同じように生きる力を与えてくださる。それが聖餐である。イエスご自身が設定してくださった聖餐をいただき、新たなる立脚点に立って、生きて行こう。イエスに従って、死の支配から解放されて生きて行こう。あなたは、決して死なないいのちに包まれている。恐れることはない。復活でありいのちである主イエス・キリストの恵みがあなたを包んでくださるように。
祈ります。

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