「負うべき荷を」

2020年4月5日(枝の主日)
マタイによる福音書21章1節~17節

「見よ、あなたの王があなたに来たる、柔和で、ロバの上に乗って、くびきを負うロバの子の上に」と、ザカリアによって預言されていたことが満たされたとマタイは語る。イエスが、ロバを探して連れてくるように弟子たちに命じたのは、預言者によって語られたことが満たされるためであったと。ここで「くびきを負う」と訳した言葉は、「荷を負う」とも訳されるが、ヒュポズュゴンというギリシア語で、くびきの下にある存在を表す言葉である。ロバとは、くびきの下にあって、荷を負わせられる存在だという意味である。このロバの上に乗るイエスは、ロバと同じく、くびきを負わせられ、荷を負うようにされているご自身を示されたと言える。あえて、ロバに乗るということはそのような意味である。
エルサレムに歩いて入っても良かったであろう。しかし、イエスはロバに乗って入った。あえてロバに乗るということは、ロバ自身が負うべきものを負うごとく、イエスも負うべきものを負う存在だと示されたのである。それがイエスの在り方である。反対に、我々人間は負うべきものを負わず、弱者である他者に負わせている。この世の地位ある者たちの在り方はそうである。弱者の負うべきものを代わって負う支配者はいない。弱者が苦しい状況に陥っても、自分は痛くもかゆくもない。弱者に負わせて、自分は負わず、自分の生活は守る。これが、この世の地位ある者たちの在り方である。この在り方がおかしいとだれもが思う。しかし、一旦地位を得たならば、同じ穴のムジナとなって、弱者は努力しないからそうなっているとうそぶく。弱者がどれだけ努力しても這い上がれない状況を作っているにも関わらず、そう言うのである。これがこの世の権力者の在り方である。
さらに、神殿の境内で売り買いしている者たちも同じであった。祈りの家である神殿に祈りに来る者たちからかすめ取っている者たち。「祈りの家」とは、願いを叶えるために来るのではない。悔い改めの祈りを献げるために来るのが神殿である。自らの罪を悔い改める祈りのために上ってくる人たちからお金を儲ける。これが神殿。権力者たちの在り方と同じ神殿経営の在り方である。このような思考が蔓延していた世界に、イエスはロバに乗って入って行く。負うべきものを負うイエス。一人ひとりが負うべきものを負い合う世界を創出するために、イエスはロバに乗って入城する。
イエスが負うべきものを負うということは、十字架を意味している。十字架は、神がイエスに与え給うた負うべきもの、負うべき荷である。その荷を負うということは、負わせ給うたお方の意志を信頼しているということである。その負い方は、受動的負い方である。それゆえに、如何なる状況においても、自分の都合で取りやめることはない。状況が変化したから、負わないとは言わない。自分の状況が如何なることになろうとも、神が負わせ給うたものを負う。これが、ロバに乗るイエスである。この根底にある信仰は、神の意志は絶対的に善であるという信仰である。絶対的に善であることは取り消されることはないと信じる信仰である。たとえ、自分にとって悪しき状況が生じたとしても、神の意志は善を働き生み出すと信頼する。それゆえに、すべてはわたしが負うべきものと引き受ける。これが、イエスがここで示し給うたご自身の在り方。信仰者の在り方。神に信頼する者の在り方である。
両替商も、自分で両替額を増減できる。資本主義社会は相対的な価値に基づいているがゆえに、物が不足すれば高くなり、有り余れば安くなる。弱者の必要なものが高く売られ、それを仕方なく買う者がいるがゆえにさらに高くなる。だれも買わなければ、売れなくなって安くなる。両替商も同じ構造である。このような社会構造をおかしいと批判すれば、地位ある者たちから疎まれ、阻害される。それゆえに、仕方なく従うということになる。イエスは、このような社会構造を覆すために、ロバに乗ってエルサレムに入城した。十字架はその象徴である。
だれもが死を恐れるがゆえに、自分のいのちを守ろうと躍起になる。他の人が命を奪われても、自分だけは何とか生き延びようとする。確かに、自分のいのちを守ることは大切である。しかし、他者のいのちも同じく神によって造られた尊いいのちである。自分のいのちだけ守られるならば、それで良しとする。このような社会が我々の社会である。「仕方ない」、「どうしようもない」、「とりあえず、自分が何とかなっていればそれで良い」と皆が思う。自分が死ななければそれで良いとだれもが思う。このような社会を作り出しているのが我々人間。我々の罪である。
イエスは我々の罪の現実を覆すために、エルサレムに入り、十字架を負われた。負うべきものを負わない人間の罪を取り除くために、ロバに乗られた。負うべきものが何であるかを示すために、神の意志に信頼することを示すために、十字架を負われた。このお方を信じる者は、自分が負うべきものを負い、他者に負わせているものを引き受ける生き方をするであろう。十字架のイエスに従って歩み続けるであろう。不当な価格で、売り買いすることから距離を置くであろう。「仕方ない」とあきらめることなく、負うべきものを負って、戦うであろう。それがロバに乗るイエスに従う者たちである。
我々は、自らの罪を知らなければならない。自らが他者の罪を助長させていることを知らなければならない。調子の良いときには、他者を助けると言いながら、調子が悪くなると自分が可愛いとなる。いつ如何なるときにも同じように生きることができなくなる。社会の動静に左右され、振り回されて生きる。多くの人が右に行けば、左に行くことを躊躇する。多くの人が動けば、静まっていることができなくなる。イザヤ書30章15節で神ヤーウェが言う通り、「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」という信仰に立つことができない。神ヤーウェがこう言ったにも関わらず、イスラエルは動き回り、さまざまな交渉によって危難を逃れようと走り回った。それゆえに、16節ではこう言われている。「お前たちは言った。『そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう』と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また『速い馬に乗ろう』と言ったゆえに、あなたたちを追う者は速いであろう。」と。静まって、神に信頼していることに力がある。それなのに、動き回り、自分だけは助かろうとして、「逃げる」生、「追われる」生を生きなければならない。結局、我々罪人は、自分の力、人間の力に頼って、自分で滅びてしまう。イエスは、このような罪深い人間の在り方を覆すために来られた。ロバに乗って来られた。
我々が信じ、従うお方は、この世の在り方を越えて生き給うお方。十字架を負って、死んでもなお生きているお方。復活して、新たなる立脚点を指し示し給うたお方。あなたがこのお方に信頼しているならば、救われるであろう。死んでも生きるであろう。決して死なないであろう。ロバに乗ってやって来るお方は、あなたの救い、あなたの力、あなたの導き手。神の善き意志が必ずなると信頼するように働きかけてくださるお方。我々は、このお方を主と呼ぶ。このお方がわたしを支配し、守ってくださると信じるからである。このお方の生き方は、神の意志の絶対的必然性を受動する生き方。我々が負うべく負わされたものを負う力を与えてくださる。受動するとき、力はわたしの力ではない。わたしに力がなくとも負うことができる。負わせ給うお方の力がわたしを包んでいるからである。
イエス・キリストは、この生き方を我々罪人に示すために、ロバに乗り、エルサレムに入り、十字架を負われた。今日から始まる聖なる週。キリストが歩まれた道を共に歩み、キリストと共に復活の喜びに与ることができますように。あなたを愛しておられる神は決して裏切ることのないお方。愛の御手の中で、あなたを包み、守り、救ってくださるお方。イエスが証ししてくださった父なる神の愛の中で守られていることを信じ、歩み続けよう。負うべき荷を負ういのちの道を。
祈ります。

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