「あなたが言った」

2020年4月8日(聖水曜日礼拝)
マタイによる福音書26章14節~25節

「あなたが言った」とイエスはユダに言う。「あなたが」とあえて「あなた」を強調してイエスは言う。「言った」のは「あなた」なのだと言う。確かに、そうである。ユダの口から出て来た言葉なのだから、ユダが言ったのだ。しかし、ユダが言った言葉なのか。悪魔がユダに言わせた言葉ではないのかと思えてしまう。なぜなら、ユダは自分がイエスを裏切ること、引き渡すことを決めていながら、「わたしではないですよね」と言うのだ。ユダ自身は、「わたしです」と分かっていながら、「わたしではないですよね」と誤魔化す。この誤魔化しを唆したのは悪魔でなくて何であろうか。それなのに、イエスは「あなたが言った」と言う。
「あなたが」、「わたしを引き渡すことを約束した」その「あなたが」言ったのだ、とイエスはユダに言う。それは「あなたは分かっていて、『わたしではないですよね』と言ったのだ」という意味である。それを唆したのが悪魔であろうとも、あなたはあなたの責任において「言った」のだと、イエスは言う。ユダに自己自身の責任を負うようにという意味が込められている言葉である。
我々は、自分が誤魔化していると分かっていながら、誤魔化す。誤魔化しとはそういうものである。自分が誤魔化していると分かっていないならば、誤魔化しではない。分かっているから、隠そうとして誤魔化す。自分がイエスを引き渡すことを他の弟子たちに知られないために、誤魔化す。「わたしではないですよね」と。ユダは、悪魔に唆されていたとしても、自分で誤魔化していることを知りながら語っている。それゆえに、ユダの責任は残る。これをイエスは指摘している。
我々は、自己の責任を負わず、誰かの所為にするために、誤魔化しを行う。しかし、自分だけは知っている、今誤魔化していると。その責任は自分にあると分かっている。だれにも責任を負わせることはできないと分かっている。ユダは、自分で責任を負わなければならない。それゆえに、彼は自殺する。正しい責任の負い方ではなくとも、ユダにとっては自殺することが責任の負い方だと思えた。いや、彼は自分自身にも嫌気が差したのかも知れない。ユダは悲しい存在である。嘘をつかざるを得ないところに自分を置いているからである。
ユダが、自己に正直であったならば、ここで「先生、わたしです。あなたはご存知ですよね」と答えたかも知れない。しかし、彼は他の弟子たちに知られたくなかった。さらに、イエスに失望していたのかも知れない。そうでなければ、先生として慕っていたイエスを売り渡すことはないであろう。いずれにしても、ユダは自らが実行したことを隠すために、他の弟子たちの前で誤魔化した。それをイエスに見抜かれたが、ユダは何も言えなかった。しかし、イエスも他の弟子たちに分からないように、ユダに言った。「あなたが言った」と。ユダが言ったということだけが語られている。他の弟子たちは何のことか分からない。「確かにあなたが言った」とイエスがユダを肯定したとしか聞こえなかったであろう。イエスは、ユダのことを皆に知らせることはしなかった。ユダ自身が正直に皆の前で語ることを待った。しかし、ユダは沈黙した。何事もなかったかのように、そこにいた。
ユダの沈黙。ユダの誤魔化し。ユダの引き渡し。これらはすべて一つの根源から発している。悪魔という根源から発している。ユダは悪いことをしているとは思っていないであろう。むしろ、この世に良いことをしていると考えている。悪に加担しながら、我々は悪を行っているとは思わない。確かに、違法に手を染めたとは分かっているであろう。それにも関わらず、あくまで良いことをしていると思うのが我々である。悪を行っていて、悪を行っていると思っているならば、悪を行わないであろう。違法だと分かっているが、真実には悪ではないと思っているから、悪を行う。イエスを引き渡すことを、ユダが悪だと思っていたならば、行わなかったはずである。自らの先生を裏切ることは、悪ではなく、この世に良いことだと自分さえも誤魔化した。それがユダの姿である。そして、我々罪人の姿である。
罪人は罪だと思わないで罪を犯す。罪だと分かっていても罪を犯す。罪ではあるが、誰かに良いことをしたのだと自分を誤魔化して、罪を犯す。このようにして、我々は罪を罪と認めないところに立つ。罪を知ってはいるが、自分には認めず、善だと思い込もうとする。そのような自分への誤魔化しも罪人の働きである。罪は、罪を罪ではないと言いくるめる。こうして、罪が広がっていく。この罪の縄目に絡まれたならば、抜け出すことは困難である。どこまでも、自分を誤魔化し続けて行く。そして、誤魔化しきれないところに至る。自滅するところに至る。結局、罪は自らを処断してしまう。神に委ねることなく、自分で自分を処断してしまう。これも罪のなせる業。
ユダは、この罪に絡み取られて抜け出せなくなり、「わたしではないですよね」と言った。この一言によって、彼は「わたしが言った」責任を負わなければならない。イエスは、ユダに責任を認識させた。そして、ユダはここで悔い改めることなく、最後まで突き進んでしまった。彼を絡め取った悪魔の網は、彼を死に至らしめた。
しかし、罪の深みに引き込まれてしまったユダを、イエスは愛している。「あなたが言った」というイエスの言葉は、ユダの責任を自覚させる言葉でありながら、「あなたが言った」ということをわたしはちゃんと分かっていると、伝えている。ユダのことを分かっているイエスにすべてを委ねることを望んで、イエスはこう言った。「あなたが言った」ことは分かっている。あなたが誤魔化していることも分かっている。あなたが他の弟子たちを欺きたい気持ちも分かっている。すべて分かっているのだから、わたしにすべてを委ねなさいと、イエスはおっしゃっているようである。もはや、誤魔化すことを止めなさいと、イエスはユダに言っているのだ。
あなたが捕らわれている罪の縄目を解きほぐすのは、わたしである。あなたが売り渡したわたしが、あなたの罪の縄目を解きほぐす者である。あなたの救いはわたしにある。このわたしをあなたが売り渡しても、わたしはあなたを分かっている。まっすぐに見ている。あなたが、わたしに従ってきたことも、あなたのうちに起こされた神の意志も、わたしは見てきた。あなたが罪を犯しても、悔い改めることができる。このわたしの言葉を良く聞きなさい。そして、自分を見つめなさい。イエスは、こうおっしゃっているようである。
我々は、ユダに関わってくださったイエスを信じている。イエスがユダを愛しておられたことも知っている。会計係をしていたユダは、お金に目がくらむことはないと信頼もされていたはずである。それなのに、イエスを引き渡す。如何に、信頼される人間であろうとも、罪を犯す。それが、ユダが我々に語っていることである。どんなに人に信頼されていても、罪を犯す。自分を誤魔化す。罪の縄目は、我々に絡みついている。抜け出すことができないほどに絡みついている。それゆえに、我々は自分を誤魔化してはならない。自分を信頼してもならない。自分自身が如何に良い人間に思えても、罪人であることに変わりはない。我々は皆罪人。自分を誤魔化し、人を騙し、陥れるような罪人。このように自覚していても、罪は我々を捉えて、動かしてしまう。この哀れな罪人のために、イエスは十字架を引き受け給うた。ユダのためにも十字架は立っている。ユダと同じ罪人である我々のためにも十字架は立っている。
聖なる週、我々が歩み行く道は、ユダと同じ罪深き道。罪を悔い改めることもできない誤魔化しの道を歩もうとする者に注がれるイエスの愛が満ちている道。この道が十字架につながっている。我々の罪を担いつつ、進み給うイエスの十字架の道を辿り、自らを省みて従って行こう。十字架の御苦しみを偲び、イエスの愛を噛みしめながら、歩いて行こう。あなたのすべてをご存知であるイエスがあなたを愛して歩み行かれた十字架の道を。
祈ります。

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