「イエスの輪郭」

2020年4月9日(聖木曜日礼拝)
ヨハネによる福音書13章1節~17節

「奴隷は、彼の主人より大きくはない。遣わされた者は、彼を派遣した者より大きくはない」とイエスは言う。「これらのことをあなたがたが知っているなら、あなたがたは幸いな者たち、もし、あなたがたがそれらを行うならば」とも続けて言う。「これらのこと」とは、イエスが弟子たちの足を洗ったことなのか。主人より大きくはない奴隷であることを認識することか。それを実行するとはどういうことであろうか。
イエスを派遣したのは父なる神である。イエスはご自分も父より大きくはないとおっしゃっているわけである。そのイエスが、主として弟子たちの足を洗った。奴隷の仕事をした。そうであれば、弟子たちが主の奴隷としてなすべきは、主以上にはなり得ないことを弁えて生きることである。それはまた、「清い」という状態を生きることでもある。そのために、イエスは弟子たちの足を洗った。
「清い」という言葉は、カサロスという言葉で、物理的に清いことを指すが、また倫理的に清いこと、あるいは儀式的に清いことをも指す。イエスがここで「清い」と言うのは、儀式的、倫理的意味における「清さ」であろう。もともと、ユダヤでは物理的清さは問題ではなかった。儀式的清さが問題であって、さらに倫理的清さが求められた。確かに、イエスが弟子たちの足を洗うことによって、弟子たちは儀式的には「清い」と言えるかも知れない。しかし、彼らは倫理的に「清い」と言えるかと言えば、それだけでは言えない。倫理的「清さ」はその人が責任をもって倫理的に生きるときに言えることである。では、イエスは弟子たちに倫理的に清く生きることを命じるために、彼らの足を洗ったのであろうか。
「奴隷は彼の主人より大きくはない」とイエスがおっしゃる弁えをもって生きるとき、弟子たちは倫理的に「清い」ということである。そのために、「模範」を与えたのだとイエスは言う。この「模範」と訳される言葉は、ヒュポデイグマというギリシア語で「輪郭を描く」という言葉である。輪郭を与えるだけで、その内実に色付けるのは、輪郭を与えられた各々である。塗り絵のようなもの。塗り絵は、その輪郭をはみ出してはならない。あくまで、輪郭の内部を塗る。イエスはこの輪郭を与え給うた。それが弟子たちの足を洗うということであった。だから、実際に足を洗うというよりも、足を洗ってくださったイエスが、それぞれに与えた輪郭を自分の色で塗ること、これが「実行すること」だと言える。
この「実行」は、イエスを主と仰ぐ弟子たちが、主より大きくはないことを弁え、主を越えないように気をつけながら、輪郭の内部を塗るのである。輪郭をはみ出さないということが重要である。人間の原罪は輪郭をはみ出してしまった結果である。自分で好きなように描いてしまった結果である。それゆえに、その絵筆は神の意志を越えてしまった。一旦越えてしまえば、どこまでも自分の好きなように描くことになる。これが罪の現実である。
我々人間が罪の輪郭を意識している間は、それを越えないように気をつける。しかし、一度はみ出してしまったならば、はみ出しても何も起こらないと思い込む。即座に何かが起こるわけではない。アダムとエヴァも「死なないではないか」と思ったであろう。神は「食べると死ぬ」とおっしゃっていたのに、「実は死なないではないか」と思ったであろう。実は、その時点で、死んでいるのだ。神の輪郭を越えてしまった時点で、死んでいる。それゆえに、神に従ういのちとしては、死んでしまっている生を生きることになったということである。死んでしまっているということは、死を恐れるようになってしまったということである。これが我々人間の原罪を招くことになったはみ出しである。
では、はみ出さないように生きるにはどうしたら良いのか。はみ出さないようにと気をつけて生きるのは窮屈だと我々は思う。だから、窮屈から逃れて、はみ出しを生きることになった。それが罪である。窮屈であることは、行動を制限されると思うが、実はその枠によって守られているという側面があるのだ。守られていることを生きるのが、はみ出さない生き方である。はみ出さない生き方によって罪を逃れることができる。しかし、我々ははみ出しを仕方ないではないかと考える。そんな窮屈な生では生きているとは言えないと思う。むしろ、自由に生きていきたいと思う。それゆえに、我々はどこまでもはみ出してしまう。
自由とは、はみ出すことではなく、守られている枠の中で自由を生きることである。枠がなければ、守りはない。守りがなければ自由もない。枠から外れれば、我々は自分で自分を守らなければならない。それゆえに、はみ出してしまった罪人は、自分しか頼らない。自分が自分を守らなければならないと必死になる。こうして、自分を守る戦いで疲れ、被害を被ったときには、相手を罵る。罪によってはみ出したのは自分なのに、他者の所為にする。これが罪人の現実である。そのような現実から解放し、新しい輪郭を与えてくださったのがイエスである。イエスの輪郭の中に生きるならば、自由がある。自由に他者に仕える。自由に他者の足を洗う。自由に人のために生きる。自分を守る必要はない。輪郭によって守られているからである。
イエスがわたしの足を洗ってくださったのだから、もはや自分の足を洗う必要はない。それゆえに、他者の足を洗う。イエスがわたしに仕えてくださったのだから、自分で自分を守る必要はない。わたしは他の人の守りのために生きる。そのような輪郭をイエスは弟子たちに与えてくださった。これが、弟子たちの足を洗ってくださったイエスの御心である。足を洗ってくださったことが、弟子たちの輪郭として、彼らを守り、彼らを浄め、彼らを導く。我々もイエスに足を洗っていただいた。洗礼において、洗っていただいた、足も含めたわたしの全身を洗っていただいた。だから、我々が洗礼を受けているということが、我々を自由にするのだ。自分を自分で守る必要がないという自由を生きることができる。わたしの守りは確かにイエスご自身であると信頼することができる。この信頼が与えられる出来事が洗礼である。この信頼を信仰と呼ぶのである。
信仰は、今日、イエスが弟子たちに与え給うた輪郭である。仕えられた者として仕える。救われた者として他者を助ける。守られた者として、他者を守る。このような働きは信仰の働きである。なぜなら、何も求めない自由な働きだからである。何も求めない自由を生きるために、イエスは輪郭を与えてくださったのだ。我々が自由に他者に仕えることを喜ぶことができるようにと与えてくださったイエスの輪郭。これが我々を守り給うイエスの愛。我々を終極へと導き給うイエスの愛。我々が失われることがないようにと与えられたイエスの愛。イエスの愛の輪郭を受け取り、イエスの愛に守られて、我々は生きて行く。あなたの行いがイエスの輪郭に縁取られた行いでありますように。わたしの奉仕がイエスの輪郭に従って、色塗られて行きますように。我々のいのちが、イエスの輪郭の中で、活き活きと息づいていきますように。
主イエスは、この輪郭を、聖なる晩餐の席において弟子たちに与え給うた。聖なる晩餐の中に、聖なる輪郭が宿っている。イエスの輪郭が息づいている。我々は、自分の口で、イエスの体を受け、自分の喉でイエスの血を受ける。このわたしの中に、イエスが入ってくださる。このわたしという存在の中にイエスが生きて働いてくださる。イエスの願う仕える者としての生き方を与えてくださる。
あなたのうちにイエスの輪郭が描かれ、あなたが自分の色で色づけすることができるようにと、与えられるイエスの体と血を感謝していただこう。あなたは、イエスの愛に守られ、イエスの体と血によって、イエスと一つとされる。イエスの愛の御心をいただいて、共に歩いて行こう、聖なる週を。
祈ります。

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