「テロス」

2020年4月10日(聖金曜日礼拝)
ヨハネによる福音書19章17節~31節

「完了された」とイエスは言う。死の間際に、イエスは「完了」が与えられたと言い、その霊を引き渡した。「完了」はテロスというギリシア語であり、テロスは終極に達することである。それは「完了」や「完成」とも訳されるが、「終わり」である。この「終わり」である終極は、受動的にしか来たらない。これは当然である。自らが終極を来たらせることはできない。従って、イエスは神が来たらせた「終極」を受け取ったと言っているのである。
イエスの主は父なる神である。父なる神によって使命を与えられ、派遣され、働きを終える。それが「終極」である。その「終極」は、十字架の死を意味しているのではない。十字架の死がもたらした「終極」はいのちの終わりではない。いのちの始まりであり、神の計画の完了なのである。完了された神の計画を認識したイエスが「完了された」と言った。自らの死を通して、神が完了をもたらしたと認識した。イエスのこの世でのいのちの終わりが神の計画の完了。神の計画が完了されたところで、いったい何が起こるのか。
死の中に完了があるのだから、死が計画を完成する。完成された神の計画はいったい何を完成したのか。単に、ひとりイエスの人生が終わったのではない。イエスの死は、神の計画の最終段階であり、イエスの死によって神の計画がすべて貫徹されたということである。では、貫徹された神の計画とはいったい何か。ヨハネによる福音書3章16節にある計画。「なぜなら、そのように愛したから、神が、この世を。独り子である息子を彼が与えたほどに。彼へと信じるすべての者が、決して滅びないで、むしろ持つために、永遠の命を」という計画である。この計画の最終段階がイエスの十字架だったということである。
完了した神の計画によって、「イエスへと信じる者」つまりキリスト者が生まれる。キリスト者は、「決して滅びない」で、「永遠の命を持つ」のである。「決して滅びない」ということが「永遠の命を持つ」ことである。永遠の命は決して滅びない状態を造り出す。神は、人間たちがこの状態に入ることを願い、計画された。どうしてであろうか。なぜ、神はこのような計画を立てたのか。
本来、人間は死を経験することはなかった。人間の堕罪によって、死が入り込んできた。「食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と言われた木から取って食べた人間は、死なない、いや死を経験することのない生を与えられていたと言える。ところが、堕罪によって、死が入り込んできたために、我々人間は死ぬことになった。そして、死を恐れることになった。死を自らの滅びと思い、死を恐れ、死から逃れたいと思う人間。この人間の中に罪が働いている。自分が生きるために、他者を押しのけてでも生きようとする。自分は自分で守らなければならないと思い、他者が邪魔になる。生存競争が起こる。これは人間の罪の現実である。必ず死ぬと言われた罪を犯したがゆえに、死ぬことになった人間の姿である。
このような人間が、決して滅びず、永遠の命を持つ者に変えられることが、神の願いであり、神の計画である。神は、原初の、堕罪前の姿に人間を回復しようと願っていた。しかし、人間は自分の力で、永遠に生きることを願った。それは無理なのに、願った。死を恐れるがゆえに、永遠に生きたいと願い続けてきたのが人間なのである。滅びたくないがゆえに、さまざまな治療薬を開発してきた。しかし、それによって、また新たな敵が生まれてきた。我々が共生することを拒み、排除し、消し去ることを望んだからである。神が創造した世界に生きるいのちは消えない。いのちのエネルギーは消えない。一つを消したと思っても、別の形で現れる。それが神の創造したいのちの真実である。我々は、このいのちを軽々しく、自分の力で操作しようとしてきた。操作などできるわけがないのに、操作し、制御しようとしてきた。結局、我々は操作制御できない世界の中にいるということを知らなければならないのだ。神の世界は人間が操作制御などできない世界である。その中で、神に生かされているいのちを生きて行くのである。決して滅びず、永遠の命を持つ者として生きる。それは、神の意志に従って、自らを隠すことなく、光の中で生きることである。
イエスの十字架は、人間が原初の姿を回復されるための神の計画の最終段階であった。その計画が「完了された」とイエスは言ったのである。死によって「完了された」神の計画。イエスの死がそれをもたらした。いや、イエスはご自身の死を通して、神の計画に用いられた。派遣されたイエスは十字架の死を必然として引き受けられた。神の意志の絶対的必然の中で、イエスの死は生かされている。神にすべてを委ねたイエスの生も死も、そして復活も神の御業の中で生きている。死がその力を剥奪され、いのちへの道を開くことになった。死の支配が滅ぼされ、いのちの支配が回復された。これがイエスの十字架である。
イエスはそのために苦しまなければならなかった。我々人間の罪を担い、苦しまなければならなかった。この苦しみを神の意志として苦しまなければならなかった。何故に、イエス一人が苦しむのか。何故に、イエスが負わねばならなかったのか。神がイエスを派遣したからである。神によって派遣され、十字架の死を通して、神の計画、神の意志が完了されるために生きたイエス。イエスの死は死ではない。死を働かなくする死。いのちのための死。いのちを回復する死。死を足許に踏みしだく死。
独り子を世に与え給うた神の苦しみも、世に与えられた独り子の苦しみも、人間には分からない。それでも、いのちが回復されることが神の喜びであり、イエスの喜びである。イエスは喜んで死を引き受け給うた。この聖なる金曜日に、イエスは喜んで死を引き受け給うた。我々人間のいのちが回復され、永遠の命を持つ者が生み出されるために、イエスは喜んで死んでくださった。我々は、イエスによって、永遠の命を持つ者とされる恵みをいただいている。このお方の神への従順が、我々の生き方になるとき、永遠の命は回復される。堕罪によって失ってしまった永遠の命を回復される幸い。それは、あくまで「完了された」ものを受け取り、受動的に生きる者に与えられる。イエスを通して、「完了された」神の計画が、イエスへと信じる者に与えられる。彼らは、決して滅びない。彼らは、死を恐れることはない。彼らは、死を越えて生きる。永遠の命を持つ。
我々キリスト者は、このイエスに従う者として生きる。イエスが十字架を負われたように、自分を捨て、自分の十字架を取って、イエスに従う。イエスが十字架で死んだように、自分を神に委ねて生きる。イエスが喜んで我々に仕えてくださったように、喜んで他者のために生きる。イエスの死が、この新しい生の始まりである。完了された神の世界の始まりである。
完了されているのだから、我々はただ受け入れるだけ。我々が何かを実現しなければならないのではない。ただ、イエスへと信じるだけで良い。我々には力はない。我々には罪しかない。我々には回復できない。神が回復してくださった。完了された世界は、我々の前に開かれている。イエスの十字架はその入口。イエスの十字架はその扉。イエスの十字架は招いている。あなたは、ただ信じ、踏み出すだけ。あなたの力は必要ない。むしろ、邪魔をするだけだ。神の御業の邪魔をしないためにも、我々は力を捨てなければならない。自分を捨てなければならない。神の御業を素直に受け入れるだけで良い。それだけで、イエスを通して完了された世界に入ることができる。
聖なる金曜日に集められた幸いな者たちは、イエスの死の恵みに与る者たち。イエスの足許に集められた者たちは、イエスのいのちに与る者たち。我々は主の死を宣べ伝える。この罪深いわたしのために死んでくださったお方の死を宣べ伝える。このお方の死がわたしを生かしてくださったと宣べ伝える。あなたを愛し、あなたから死の恐れを取り除いてくださる主に信頼して、進み行こう。いのちの道を。
祈ります。

Comments are closed.