「派遣」

2020年4月19日(復活後第1主日)
ヨハネによる福音書20章19節~23節

「ちょうどわたしを派遣したように、父が。わたしもまた送る、あなたがたを」とイエスは言う。父なる神によるイエスの派遣と同じように、イエスは弟子たちを送るのだと言う。イエスの派遣とは、ヨハネによる福音書3章16節にある通り、イエスの十字架を通しての神の計画の完成のためである。「なぜなら、そのように愛したから、神が、この世を。独り子である息子を彼が与えたほどに。彼へと信じるすべての者が、決して滅びないで、むしろ持つために、永遠の命を」という神の計画がイエスの十字架を通して完成した。完成した計画と同じように、イエスは弟子たちを送る。送付先は「この世」である。弟子たちは復活したイエスによってこの世へと送付される。もちろん、聖霊降臨の出来事が語っていることがこの弟子たちの送付である。ヨハネでは、聖霊降臨の出来事は直接的には語られていないが、14章26節、27節でイエスはこうおっしゃっていた。「しかし、励まし手、聖なる霊、父がわたしの名において送るであろうお方、その方があなたがたにすべてを教えるであろう。そして、あなたがに思い起こさせるであろう、わたしがあなたがたに言ったすべてのことを。平和をわたしはあなたがたに残している。わたしの平和を、あなたがたに与えている。ちょうど世が与えるようにではなく、わたしはあなたがたに与えている」。このように語っておられた言葉が、復活の日に実現した。「平和、あなたがたに」とおっしゃって、弟子たちの中に立ったイエス。このお方が弟子たちに送る平和が、イエスご自身の口から弟子たちに与えられる。そして、聖霊と共に派遣の言葉が与えられる。これがイエスご復活の日に起こったことである。
平和とは、ヘブライ語ではシャローム。欠けの無い状態。すべてが満たされている状態。イエスは、この平和を弟子たちに与える。平和に満たされて、彼らは送られる、この世へ。この世へと何をもたらすのか。イエスがこの世に与えられたこと。この世のすべての者が「決して滅びず、永遠の命を持つ」者とされるために、弟子たちは送られる。
復活の喜びは、派遣の喜びである。さらに、派遣された者たちが、派遣し給うお方と共に生きる喜びである。イエスの息を吹きかけられた弟子たちは、イエスの霊と共に派遣される。彼らは、何も恐れることはない。怖じ気づくこともない。イエスが息を吹きかけたのだから。イエスの霊が彼らと共にあるのだから。復活を信じるということは、「決して滅びない」ことを信じることであり、「永遠の命を持つ」ことを信じることである。恐れることはない。怖じ気づくこともない。
自分たちの力に頼る限り、恐れは生まれる。恐れは、人間の内面にすでにある不安から来たる。罪を住まわせていることから不安は来たる。罪深い人間は常に不安を抱えている。死を恐れる。それゆえに、人間的にすべてを整えたとしても、また不安が膨らんでくる。どこまでも不安は増大する。弟子たちは、自らの力で、何もできなかった。イエスを守ることさえできず、自分を守ることもできず、ただ隠れていた。家の中に閉じこもり、鍵をかけていた。誰にも襲われないようにとすべてを塞いでいた。それこそが罪の姿である。
罪は、恐れを刺激し、不安を増大させ、誰も信用できないようにしてしまう。一人ひとりの接触を避けるようにさせ、分断してしまう。こうして、弟子たちは集まっていても、恐れに支配されていた。弟子の一人、トマスがいないことも忘れて、鍵をかけていた。自分のことしか考えることができなくなっていた。この恐れと不安のただ中に、イエスは入り来たり給うた。鍵などものともせず、ただ弟子たちの中に立ち給うた。人間が恐れ、不安を抱いていてもなお、イエスはその中に立ち給う。そして、平和を与え給う。すべてが満たされている状態を与え給う。
我々人間は自分のことしか考えることができない。他者のことまで思い及ばず、自分を守るために鍵をかけ、閉じこもる。こうして、罪の中に閉じこもり、隠れてしまう。それが原罪を抱えている者の姿である。ところが、この原罪を働かなくするために、イエスは父によって派遣された。原初の姿を回復するために、父なる神はイエスを派遣した。その回復の御業は、イエスの十字架において完成した。
我々は罪人である。罪人の現実の中で右往左往してしまう。閉じこもり、接触を断ち、隠れてしまう。悪魔はこれを喜ぶ。一人ひとりが疑心暗鬼に陥ることで、すべてが分断され、何もできなくなる状態を喜ぶ。一人ひとりが死を恐れて、自分のことしか考えなくなることを喜ぶ。自分のことを忘れるためには、他者のことを考えることが必要なのである。他者のために働くことが必要なのである。他者を守るために、自分を捨てることが必要なのである。そのために、イエスは弟子たちの中に立ち給うた。彼らが自分を捨てることができるようにと「平和」を与え給うた。イエスの「平和」によって、彼らは誰も恨むことなく、ただ「赦し」を伝えることが可能となった。「赦し」によって、彼らは他者を受け入れる。「赦し」によって、彼らは他者に平和を与える。「赦し」によって、彼らは他者と共に生きる。分断されていた関係が回復される。原初の神のいのちが回復される。神の「赦し」の力がいのちを回復する。そのために、イエスは弟子たちを送る、この世へ。
この世への派遣は、決して滅びないことをこの世が信じるため。この世の一人ひとりが神の意志によって創造されたことを信じるため。この世界の被造物が救われるため。罪に汚染された世界が、神の聖なる世界として回復されるため。そのために、弟子たちは神の「赦し」を宣教する。神のよって赦された者として、この世に生きる。この世の中で、苦難を越えて、「赦し」を宣べ伝える。弟子たちは、その使命を与えられるに相応しい者たちとは言えないであろう。しかし、イエスが彼らを選んだ。神が彼らを選んだ。相応しい者、力ある者ではない弟子たちを父と子が選んだ。イエスも父も彼らを愛した。それだけが彼らの選びの根拠。
優れた者が選ばれるわけではない。力ある者が選ばれるわけでもない。地位ある者が選ばれるのでもない。相応しからざる者たちが選ばれた。小さく、弱く、罪にまみれた者たちが選ばれた。この世の底辺から選ばれた。底辺であるがゆえに、宣教できる。小さく弱いがゆえに、神の力に信頼する。信頼せざるを得ない。何もできないからこそ、神に祈る。このような者として、弟子たちは選ばれた。キリストの平和を与えられた。
キリストの平和は、取るに足りない者を通して、この世にもたらされる。キリストの赦しは、罪深き者を通して、この世に宣べ伝えられる。キリストの力は、小さく弱き者を通して、この世に証しされる。これがご復活の日に、弟子たちに与えられた幸いであり、喜びである。
主のご復活を祝っている我々もまた、弟子たちと同じようにこの世に派遣される。派遣されたところで、赦しと平和を生きる。宣べ伝える者がまず赦しを受け取っていなければならない。平和を生きていなければならない。誰も、信じないとしても、平和が与えられていることを信じて生きなければならない。すべては完成され、満たされていると信じて生きる者を通して、神の平和シャロームは宣べ伝えられる。
これから始まる一週間も、神の平和、イエスの平和、シャロームの中ですべてが満たされていることを信じて、歩いて行こう。死を恐れることはない。不安に踊らされることもない。主イエス・キリストをご復活させた神の力があなたがたを包んでいる。静まって、主こそ、我らの神と信頼していよう。信頼することに力があると、イザヤ書30章15節以降に語られている通りである。
あなたがたの神は、「恵みを与えようとしてあなたがたを待っておられる」お方。「憐れみを与えようとして立ち上がられる」お方。この神に派遣された者として、この世に仕えて行こう。イエスの復活の力によって、強く、優しく生きて行こう、イエスによって派遣された者として。
祈ります。

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