「関係の創造」

2020年4月26日(復活後第2主日)
ヨハネによる福音書20章24節~29節

「もし、わたしが見ないなら、彼の手の内に、釘の場所を」とトマスは言う。それに対して、イエスは「わたしの手を見よ。あなたの手を投げよ」と言う。トマスは、イエスとの関係を「彼とわたし」の関係として語った。しかし、イエスはトマスに対して「わたしとあなた」の関係を与える。イエスがトマスに言う「不信の者として生じるな。むしろ、信じる者として生ぜよ」という言葉が語っているのも、トマスに信ぜよとおっしゃっているのではない。「生ぜよ」という命令形の言葉が表しているのは、天地創造の際の神の言葉と同じく、イエスの創造の意志である。イエスは、トマスを新しい関係の中に創造すべく、再び日曜日に現れてくださった。主の日、主日は、こうして主がわざわざ現れてくださった日として祝われることとなった。我々が主の日を喜び祝うのは、イエスとわたしとの関係が新しい関係として生じることを祝うのである。
この新しい関係は、イエスの側から創造される関係。我々が作る関係は、我々の都合によって作られる。イエスの側から作られる関係は、我々の都合などとは関わりなく、イエスと父なる神の側から創造される関係である。我々に主導権はない。神とイエスの側に主導権がある。神とイエスとの働きによって、新たに創造された者として、我々はイエスに従い、神の意志に従う生を生きていく。そのために、主の日は創造された。
日曜日は、主のご復活の日として創造された新しい安息日である。それまでは、土曜日が安息日であった。正確には金曜日の夕方から安息日が始まる。ユダヤの暦では夕方が一日の始まりである。ところが、主のご復活は、日曜日の朝早く起こった。それゆえに、我々キリスト者は日曜日の朝早くに集められる。主のご復活を祝うのは日曜日の朝である。この日が設定されたのは、我々人間によってではなく、神によってである。神が主イエスを復活させ、弟子たちに現してくださったのが、日曜日の朝だったからである。主の日は、神の設定。神が定め給うた日に、神によって集められる者たちが、主イエスとの新しい関係を創造されて、派遣される。この日を守るということは、新しい関係の創造に迎えられていることを喜ぶということである。
主イエスは、トマスに言う。「不信の者として生じないで、むしろ信じる者として」と。主は、トマスが不信の者として生じることを喜ばなかった。むしろ、信じる者として生じることを願われた。それゆえに、一週間後に再び皆が集められているところに現れてくださった。何故、一週間後なのか。トマスだけのところに現れても良かったのに。平日にトマスに現れなかったのは何故なのか。主の日を祝うためである。主の日でなければならなかった。この日を永遠に祝うために、一週間後でなければならなかった。この日が主と弟子たちとの新しい関係の創造の日だったからである。
イエスの方から、新しい関係を創造してくださった。創造によって、すべては新しくなった。原初の姿を回復するとは言え、原初の喜びを回復するとは言え、それは新しい関係なのだ。なぜなら、人間が神との関係を捨てていたからである。自分から関係を切っていた人間に対して、神によって起こされたイエスは、ご自身から関係を結ぼうと現れてくださった。これによって、イエスは彼らの神として生きる。関係を創造する神として、イエスは彼らの神、彼らの主となる。それが主の日の意味である。
この主の日を守ることによって、我々は週毎に新しい関係に生きる。一週間前には、トマスのいないところで現れたイエスとの関係は、トマスがいるところで再び新たに創造される。トマス一人が加わったことで、弟子同士の関係も新たに創造される。我々は、週毎に神との新しい関係を創造された者として生きる。従って、礼拝に参与しなくなることで、新しい関係を生きる力を失うことになる。礼拝に参与するということは、一週間前とは違う神との関係を創造されるということなのである。この創造に与らないならば、我々は一週間前のまま、二週間前のまま、一ヶ月前のまま、一年前のまま、五年前のまま、十年前のまま、そこで止まってしまっている。止まってしまった関係は死んでいる関係である。我々が毎週礼拝を守るのは、毎週生きている神との関係を創造されて生きるということである。
この関係を生きる者は、それまでの自分自身を悔い改めて生きる。方向転換をして生きる。こうして、我々の生は、週毎に新たにされる。日々新たにされる。使徒パウロがコリントの信徒への手紙二4章16節以下で言う如く、「16 それゆえ、わたしたちは怠慢になりません。むしろ、もしまたわたしたちの外なる人間が破壊されているなら、むしろ、わたしたちの内なる(人間)は更新されている、日々に。17 何故なら、わたしたちの苦難の一時的軽さは、卓越に従って卓越へと、栄光の永遠なる重さをわたしたちに働き生み出すからです。」ということである。我々キリスト者は、毎週礼拝を守ることによって、内なる人間の更新に与っている。「苦難の一時的軽さ」があるということは、苦難を被ることが礼拝を守るということである。さらに、「怠慢にならない」ことが礼拝を守るということである。我々人間は「怠慢になる」ものである。一度、礼拝を休めば、二度、三度と繰り返し休むことが可能となる。休んでも大丈夫だと思うことになる。こうして、悪魔が入り込んでくる。
礼拝を守るのは、我々の恣意ではない。我々の守りたいときに守るのではない。毎週、主の日を喜び祝い、新しい関係を創造されて生きる。毎週守るのでなければ、我々は新しく生きることはできない。家で祈っているから大丈夫だと思うような怠慢に陥る。そのうち、家でも祈らなくなる。主の日を守ることが負担になってくる。こうして、主の日は蔑ろにされ、我々は古い自分に支配される。罪に支配される。主イエスは、トマスと他の弟子たちをこの日、新しく創造し給うた。トマスも含めた一人ひとりの神、主として支配し給うた。トマスのいない群れではなく、トマスのいる群れとして弟子たちは新しくされた。誰かが加えられることで、我々も新しくされる。お互いの関係も、主との関係も新しくされる。こうして、我々は終わりの日に向かって、日々更新されながら歩き続ける。これこそが、キリストの教会である。キリストがわざわざ弟子たちに現れてくださった意味である。この主の憐れみを忘れないためにも、我々は自分を打ち叩いて、礼拝に参与する。パウロがコリントの信徒への手紙一9章27節で言うように、「27 むしろ、わたしはわたしの体を打ち叩く。そして、わたしは隷属させる。万が一にも、他の人に宣教して、自分自身が失格者となりはしないかと。」という思いをもって礼拝に臨むのである。
それはまた、主がわざわざ現れてくださった心を無駄にしないためでもある。主は、トマスのためだけではなく、他の弟子たちのためにも、わざわざ現れてくださったのだ。他の弟子たちが、見失っていた自分を取り戻すために、彼らが見失っていたトマスとの関係を取り戻すために。我々は、今日ここに集うことができなくなった人たちのためにも召されていることを忘れてはならない。ここに集うことができないということに心痛めている人たちのためにも、主は我々を集めてくださっている。終わりの日に、神の国で共に主を仰ぐために。この主の憐れみによって、今集められていることを喜び、感謝しよう。主があなたを求めておられる。主が兄弟姉妹を求めておられる。主が集うことができない人たちを求めておられる。その一人ひとりと新しい関係を創造したいと求めておられる。その日が来たるためにも、我々は週毎に礼拝を守る。守ってさえいれば、いつか再び共に集うことが可能とされるであろう。集められることを拒否した群れは教会としての働きを失ってしまう。いつでも、誰でも、この群れに加えられることが可能となるようにと、呼び集められた我々が礼拝を守るのである。これが主の召しに応えることである。
この週も、主のご復活の力によって、力強く生きて行こう、新しく創造された関係の中で。
祈ります。

Comments are closed.