「必然の関係」

2020年5月3日(復活後第3主日)
ヨハネによる福音書10章1節~16節

「羊たちの野原へと、ドアを通って入らない者、むしろ他のところを乗り越える者は、泥棒か略奪者である」とイエスは言う。ここで「ドア」スュラという言葉が使われている。この言葉が指しているのは出入りするための「戸口」である。この「戸口」をイエスはご自身のことだともおっしゃっている。「わたしの前に来た者たちすべては、泥棒たちであり、略奪者たちである」ともおっしゃっている。「しかし、羊たちは彼らのことを聞かなかった」と言う。羊たちは、略奪者たち、泥棒たちのことを知らないし、言うことも聞きはしなかったのである。どうしてなのか。それは、イエスとイエスの羊たちは必然的な関係によって結ばれていたからである。この「必然の関係」を生きていない者は、必然的に分かるということである。どこで分かるのか。「羊たちのためにその魂を置く」者が羊たちの牧者だからだとイエスは言う。
この必然的関係は、羊自身もイエス自身も造り出すことはできない。神がそのように置いたがゆえに必然的に結ばれているということである。この関係を素直に受け入れることが洗礼である。素直に受け入れないならば、神が置いた必然を拒否しているということである。そのとき、「必然の関係」は失われてしまう。なぜなら、神が置いたことを受け入れないということにおいて、神を拒否し、関係を拒否し、自分の都合の良い関係を自分で作ろうとしているからである。これが泥棒であり、略奪者である。
神が置いた関係を捨てて、自分が作る関係に生きることがこの世なのである。それゆえに、都合が悪いと関係を断つこともできると考える。あるいは、都合の良い関係の中に入れる人を自分が決める。この世の関係は常に自己中心なのである。自己中心的な関係は必然の関係ではない。自己中心的関係は罪における必然の関係ではあるが、神における必然の関係ではない。神における必然の関係を生きるということが、イエスの羊として生きることである。イエスに信頼して生きること、キリスト者として生きることである。この関係を与えるために、イエスは死を通して、この世の関係を葬ったと言えるであろう。イエスの十字架はこの世の人間たちが造り出していた関係をすべて葬ることを意味している。そして、新しい立脚点に立てられること。それが復活である。
復活は、これまで我々人間が築いてきた立脚点、人間同士が造り出す関係を死に至らしめ、神が立て給う立脚点に立つことである。イエスもご自身で復活されたのではない。神によって起こされた。ここから始まった復活は、あくまで神が起こし、神が立て、神が導き給う道を歩む者を創造する神の御業である。復活は人間が造り出すことができない必然的関係を創造する。それが、イエスと羊との関係であり、必然的に結ばれている関係である。この関係は、どこから始まっているのか。我々が母の胎に入る前からである。それをイエスはこうおっしゃっている。「わたしは認識している、わたしのものたちを。そして、わたしのものたちもわたしを認識している。ちょうど父がわたしを認識しているように、またわたしも父を認識しているように」と。父と子の関係は必然であるが、それは生まれる前から、母の胎に入る前からそうなのである。それと同じように、我々とキリストとの関係は母の胎に入る前から必然的に結ばれている。これを変えることは、我々にはできない。また、生まれた後からこの関係に入ることもできない。
ニコデモとの対話において、イエスはこうおっしゃっていた。「肉から生まれた者は肉。霊から生まれた者は霊」と。ニコデモは「もう一度、母の胎に入ることはできない」と言ったが、イエスは「水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない」と応えた。そして、「肉から生まれた者は肉」とおっしゃった。しかし、「霊から生まれた者は霊」である。我々は身体を持って生まれるのではあるが、「肉から生まれる」のではなく「霊から生まれる」のである。神の意志によって生まれたのだということを信じる者は霊から生まれている。しかし、自分が都合の良いところを作り出せると思っている者は肉から生まれている。生まれる前から神の予知と予定によってそうなっている。これを人間が覆すことはできないのである。
神における必然の関係。それが、イエスとイエスの羊との関係である。それゆえに、イエスは羊のために魂を置く十字架を負ってくださった。十字架を仰ぎ、自分のために魂を置いてくださったイエスを見る者は、イエスの羊である。この小さなわたしのために、イエスが十字架の死を引き受けてくださったと信じる者がキリスト者である。我々の側からこの信仰を作り出すことはできない。十字架を仰いで、わたしのために負ってくださったと信じる信仰が与えられる者は、生まれる前からそうなのである。神の予知と予定によってそうなのである。この事実を素直に受け入れる者は、十字架の言葉を聴く者である。十字架の言葉によって、聴く耳を開かれた者である。それゆえに、十字架の言葉の宣教が必要なのである。十字架の言葉を宣教すること。それがキリストの教会の使命である。福音化する使命である。使徒パウロがローマの信徒への手紙10章15節で言うように、「時宜に適った者たちのようだ、善きことを福音化している者たちの足は」ということである。ここでパウロが使っている「時宜に適った者たち」という言葉は、直訳すれば「時の者たち」という意味である。ホーライオスというギリシア語で、ヘブライ語ではナーアーという言葉である。「ちょうど良い」、「適当」、「顔立ちの良さ」を表す言葉である。つまり、ちょうど良いときに、ちょうど良い言葉を語る者たちが「時宜に適った者たち」なのである。それは、自分で時を決めるのではなく、語るべきときに語るということである。このような宣教によって、福音が宣教される。十字架の言葉が宣教される。「時宜に適った者たち」が語る言葉によって、「時宜に適った者たち」が聴く。それだけである。この単純な関係も「必然の関係」であり、我々が生まれる前から神の予知と予定によって生じることである。
泥棒や略奪者は、自分の都合の良いときを狙って入り込んでくる。時宜に適った者たちは、自分の都合で語ったり、語らなかったりすることはない。自分の都合の良いときを選んでいるならば、それは略奪者である。自分の世界に引き込もうとする者たちである。このような世界から、新しい立脚点に立てられた我々は、決して引き込まれることはない。イエスの言葉、十字架の言葉によって、必然的関係に目覚めさせられているからである。この目覚めを起こすのがイエスの言葉であり、十字架の言葉である。
我々は、如何なるときにも、この言葉を聞かなければならない。聞くときを我々が選ぶのではない。神が語り給うときに、聞くのである。いついつに語ってくださいと我々が求めることはできない。もしかしたら、聞きたくないときに語られるかもしれない。それでも、耳を開かれて聞く。それがイエスの羊である。イエスが呼ぶときに、どうしてもイエスの声が入ってくるのである。他の声は入ってこない。入って来たとしても、何か違うと思うのである。
あなたがたはイエスの羊。イエスの声を聞く者たち。あなたのために、イエスがその魂を置いてくださった者たち。従って、我々はイエスの側から、神の側から作られた必然的関係に、必然的に入れられている。一人の羊飼いに従う群れとして、我々はキリストの羊たち、キリストの教会の肢、キリストに愛された者たち。
あなたがこの必然的関係を忘れることがないようにと、キリストは週毎に語りかけ給う。「わが羊たちよ、わたしの十字架を仰げ。わたしの傷を見よ。わたしの魂を受けよ。あなたの魂はわたしのもの。わたしの魂はあなたのもの。あなたとわたしとは一つの魂となるべく、神によって造られ、結ばれた者。あなたがわたしの羊として生きて行くために、あなたに語るわたしの言葉を聞きなさい。わたしの声をあなたは知っているのだから。わたしの愛をあなたは知っているのだから。」
祈ります。

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