「父と子の一」

2020年5月10日(復活後第4主日)
ヨハネによる福音書14章1節〜14節

「もし、あなたがたが何かを願うなら、わたしの名において、わたしが実行するであろう」とイエスは言う。弟子たちの父なる神への願い、祈りはイエスによって実行される。イエスと父とは一つであるとイエスは言う。どうして、一なのか。それは、イエスの実行において、父が栄化されるからである。イエスはこうおっしゃっている。「わたしの名において、あなたがたが何かを願うこのことをわたしは実行するであろう。その結果、わたしの父が栄化されるであろう」と。「その結果」とは目的を表す接続詞だから、「父が栄化されるであろうために」ということになる。つまり、イエスは父の栄化のために、あなたがたが願うことを実行するであろうとおっしゃっているのである。イエスの実行に伴って、父なる神が栄化される。それは、弟子たちが自らの願いの実現を神に帰すことである。神が願いを聞き届け、実現してくださったとの信仰を強められること。それが父の栄化である。この信仰を強める働きを実行するのがイエスである。
父はイエスをそのために派遣した。我々人間が、不信に陥ってしまわないために、父はイエスを派遣した。イエスの派遣によって、弟子たちは父を知ることができる。それゆえにイエスは言う。「わたしを見た者は父を見た」と。イエスと父とは一である。一であるがゆえに、父の栄化のためにイエスが働くことは、イエスご自身の栄化でもある。しかし、この栄化はイエスの十字架を通して実現される。それゆえに、父の栄化とイエスの栄化は、この世的には苦難である。この世における苦難が栄化である。
イエスにおいては苦難であろうが、父においては苦難なのか。独り子を与えることは、父の苦難である。父は与える苦難を引き受け、子は与えられる苦難を引き受ける。与える父と与えられる子。一である父と子がこの世にいのちを与える。それゆえに、イエスは言う。「わたしが道であり、真理であり、いのちである」と。イエスは父に至る道。イエスは隠れなくある真理。イエスはいのちを与えるお方。イエスを通って、我々は隠れなくあることを生きることができる。自らを取り繕うことなく、罪深い自分自身を神の前に投げ出して、ひれ伏す。イエスに包まれて、父なる神の前にひれ伏し、疑いと不安のこの世から解放されて生きる。自由を生きる。この自由がいのち、真実に神の前で生きるということである。このようなところへと導き給うのは聖なる霊。神の霊。使徒パウロが言う「イエスの理性」、「イエスの心」、ギリシア語でイエスのヌースである。
パウロはコリントの信徒への手紙一2章16節でこう言っている。「彼を導くお方、キリストのヌースを誰が認識するのかということだから。しかし、わたしたちはキリストのヌースを持っている」と。このキリストのヌースが聖霊である。キリストの理性、キリストの心を持つということは、キリストと同じように感じ、考え、行動する理性を持つということである。聖霊が与えられているということは、キリストの理性を与えられていることである。聖霊を与えられている者は、キリストと同じように世界を見る。世界を感じる。世界を考える。その世界が真実には神によって創造された世界であることを見て、感じて、考える。キリストの理性が与えられているならば、この世界は人間が作り出したものではなく、神が創造した世界であることを認識する。この認識において、我々人間はこの世界が如何なる災禍に見舞われようとも、神の真実を信頼する。神が悪しきことを為し給わないと信じる。その信仰は、キリストの十字架から来る。十字架の言葉から来る。
キリストの十字架が神の栄光であり、キリストの栄光であるがゆえに、十字架から来る信仰を与えられているならば、我々はいかなる苦難においても、うろたえることはない。神は善きことを為し給うと信じるからである。我々にとって悪しきことに思えたとしても、神の善がなっていくと信じる。これがキリストの理性を与えられた者が生きる世界である。この世界に我々を導き入れ給うために、キリストは苦難の十字架を負ってくださった。この信仰を与え給うために、キリストは父を栄化してくださった。十字架を通して、栄化してくださった。それゆえに、イエスの十字架を仰ぐ者は、神の苦しみを知り、神の苦しみの実りであるイエスの救いを知る。このわたしのために苦しみ給うたイエスを通して、我々は神とイエスの一なる世界に入れられる。父と子の一なる世界に入れられる。この世界は失われることなき世界。朽ちることなき世界。この世が朽ちたとしても、決して朽ちない世界に生きる。それが、永遠の命の世界である。
我々は父と子の一なる栄光の世界に入れられている。父と子の苦難の一なる世界に生かされている。それゆえに、キリスト者はこの世で苦難を負う。キリストはヨハネによる福音書16章33節でこうおしゃっていた。「この世において、苦難をあなたがたは持っている。しかし、勇気を出せ。わたしは勝ってしまっている、世に」と。この世において、苦難は無くならない。苦難はある。しかし、イエスは世に勝ってしまっている。だから、勇気を出し、歩み出すのだ。イエスはこの勇気を与え給う。この勇気を与えるのも聖なる霊。イエスの理性。イエスの理性を持っているならば、この世の苦難もイエスの苦難の中に包み込まれていることを認識するであろう。イエスの苦難が、我々のこの世での生を越えて、働く。神の善を働き生み出す。苦難を被っていても、神の恵みと受け入れる者は、苦難の中にあっても、神の恵みの中で生きる。神の恵みの中で、善き世界を生きる。これがキリストの理性が見せてくださる世界である。
それゆえにイエスは言う。「わたしが道であり、真理であり、いのちである」と。イエスを通して、父の真実の世界に入ることができる。イエスを通して、神が創造し給うた真実なる世界で生きることができる。イエスを通して、父なる神の真実なるいのちを生きることができる。イエスを通してのみ、神の世界、神の支配し給う永遠の命の世界に入ることができる。このために、イエスはこの世に派遣された。父の苦難を通して、派遣された。父の悲しみを通して、派遣された。父なる神の苦しみと悲しみとがイエスの十字架の上に掲げられている。神の栄光として掲げられている。我々が、イエスの十字架と復活を通して、神の苦しみと悲しみを認識し、受け取るとき、我々は神の世界に入れられる。こうして、我々はこの世にあって、苦難を被ってもなお、希望を持って生きることができる。苦難から逃げるために、自らを隠すことなく、ありのままの罪人として生きる力を与えられる。苦難を越えて生きる力を与えられる。これがキリスト者の祝福。キリスト者の幸い。キリスト者の喜び。そして、神の栄光である。
キリストがわたしのためにその魂を差し出してくださったように、わたしもまた他者のために自らの魂を差し出す。キリストがわたしを愛してくださったように、わたしもまた他者を愛する。キリストが苦難を越えて生きたように、わたしもまた苦難を越えて生きる。この力を与え給うのは父なる神と主なるキリスト。あなたは父と子の一なる世界に迎え入れられている。あなたを愛し、キリストを与えてくださった神が、あなたをご自身の世界に迎えておられる。この世とは違う価値に生きる世界。この世とは違う理性に生きる世界。この世とは違う霊に生きる世界。新しい神の世界が開かれている。キリストの十字架によって開かれている。まことに罪深き自らを認識しつつ、我々は入って行く。神の世界に入って行く。資格は必要ない。入ろうとする者をイエスは喜び迎えてくださる。受け取る者に、イエスは喜び与えてくださる、ご自身の魂を。
イエスの魂と一つとされた我々をイエスはこの世に派遣したまう。この世が陥っている闇に光をもたらすために、派遣し給う。この世にあるすべてのものは、神に愛され、創造された存在。すべてのものに向かって、我々は神の愛を伝える。神の喜びを伝える。如何なるときも、愛の中に留まるようにと伝える。すべてはイエスご自身が実行してくださる。イエスの力を信じて、歩み出そう、この世の中へ。あなたは父と子の一なる世界に生かされている者なのだから。
祈ります。

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