「見せ生かす霊」

2020年5月17日(復活後第5主日)
ヨハネによる福音書14章15節〜21節

「あなたがたはそれを認識している」とイエスは言う。「それ」とは「別の弁護者」、「別の励まし手」、弟子たちをイエスを見ることへと導く聖なる霊である。イエスがそうおっしゃっても弟子たちは自覚的には認識していると思っていない。自覚的にとは、「自分は見ている」とか「自分は分かっている」と意識的に認識するということである。意識していなくとも、認識していることはある。そう言われても、狐に摘まれたような感覚であろう。しかし、その方は、弟子たちがイエスを「見る」ようにしてくださるとイエスは言う。イエスが生きていることを見て、感じて、認識するように導いてくださると言う。それが聖なる霊である。
そのお方は、弟子たちのそばにおられ、弟子たちのうちにおられるとイエスは言う。我々は、そばにいても、うちにいても、気づかないままである。我々のうちに神が働いてくださり、我々と共にいてくださっても、我々は気づかない。気づかないままに、神の力によって生かされている。気づかないままに、神の意志に従って、導かれている。神の力、神の意志を自覚的にではなくとも受け入れ、従っている者は素直に、純粋に神に従っている。神によって生かされている。これは自覚的ではないとしても厳にある事実である。
聖なる霊の働きも我々には自覚的には分からないとしても厳にある働きである。聖霊降臨の出来事も弟子たちの自覚的出来事ではなく、彼らのうちなる聖霊の働きである。聖なる霊が降るということは、聖なる霊に動かされるということである。聖なる霊は我々のうちで働く。我々のそばで働く。それにも関わらず、我々は自覚的に認識してはいない。それは風と同じ。風が吹いた結果は、認識できるが、吹いているときには認識できていない。風が吹いていると認識しているときは、吹いた結果の空気の動きを認識しているだけで、風そのものを認識はしていない。我々の認識は結果のみ、過去のみ。現在を認識することはない。それゆえに、イエスが「あなたがたはそれを認識している」とおっしゃっても、弟子たちには分からない。現在は自覚的には認識できていないが、あなたがたが認識しているという現在はあるのだ。聖なる霊が働いておられるのだから。
従って、イエスが生きておられることも、聖なる霊が働いた結果を通して、認識する。イエスを直接的に認識するというよりも、イエスが生きておられることを結果から認識する。あれはイエスが働いてくださったことだったのだと認識する。我々の自覚的な認識はそのようなものである。それでも、イエスがおっしゃるように、認識が現在の中で働いていなければ、結果を知ることはできない。それゆえに、イエスは「あなたがたはそれを認識している」と言うのである。イエスが生きていることを認識することも、聖なる霊の働きである。
イエスは、さらに良く分からないことをおっしゃる。イエスと父とが相互内在的に生きていると。そして、弟子たちとイエスご自身も相互内在的に生きるようになると。これを「愛」という観点から説明なさる。「わたしを愛している人は、愛されるであろう、わたしの父によって。わたしもまた、その人を愛するであろう。そして、わたしは現すであろう、彼に、わたし自身を」と。愛のつながりが、最終的にイエスご自身を見ることに至る。それは、「愛」という神の出来事の中で、イエスご自身を見ることである。
イエスを愛する人とは、イエスに愛されている人である。イエスの愛がその人のうちにあるがゆえに、その人はイエスを愛するようにされる。その人は、神によっても愛されている。神に愛されていることを自覚的に認識したとき、その人はイエスご自身を見るのである。十字架を通してまで、愛してくださった父とイエスとを認識するからである。この認識を開くのが聖なる霊の働きである。つまり、すべての根源には神の愛があるとイエスはおっしゃっているのである。
神の愛があって、この世は創造された。神の愛があって、自然は創造された。神の愛があって、人間は創造された。この世のすべては神の愛という根源的力によって創造されている。この認識を開くのが聖なる霊なのである。そうであれば、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一2章で言うように、聖なる霊は神の愛を認識させる霊である。
自分が愛されていることを認識した存在は、愛されている愛によって、父を愛し、イエスを愛する者とされる。父の意志、イエスの命令を受け入れ、守ることになる。それは、守らなければならないことではなく、守らざるを得ないようにされていること。守ったから褒められるわけではない。守ったから良い地位に就けるわけでもない。守ることを愛するだけである。喜びを持って守るだけである。このような人間が創造されるために、イエスは十字架を引き受けてくださった。我々が愛を生きる者とされるために。
しかし、我々はこの愛を認識できないままに、愛されたい、愛されたいと願い求める。人間に愛されるために、何かを行い、何かを差し出し、いろいろと積み上げる。愛されていると感じたとしても、次の瞬間にはまた不安になる。それは、根源的な愛を認識し、受け取っていないからである。根源的な愛を受け取っているならば、人間から愛されないとしても不安になることはない。この世で独りになったとしても不安になることはない。独り、十字架に死んだとしても、神の愛を信じる。イエスは、根源的な愛を受け取り、十字架に至るまで神の愛を信じてくださった。その結果が復活である。神の愛を信じている者は神によって新しい立脚点に立たされる。イエスはこの世界を開くために、十字架を引き受けてくださった。我々はこのお方を認識し、見ることによって、自分自身の根源を見る。神に愛されている自分自身を見る。
聖なる霊は、この愛を我々に供給してくださる別の弁護者、イエスとは別の励まし手。この聖なる霊を受けるのは洗礼であると言われるが、もともとその人のうちに働いている聖なる霊によって洗礼へと導かれ、聖なる霊の働きを開かれると言った方が良いであろう。洗礼を受ける者は、イエスがおっしゃるように、自覚的ではないが、認識しているのである、聖なる霊を。聖なる霊が働いていなければ、その人は洗礼へと導かれることはないからである。それゆえに、我々は神の予知と予定によって、母の胎に入る前から、神の愛の中にいたのだ。洗礼を受けるように導かれたとき、母の胎以前の認識が開かれたのである。
我々は神に愛されている。愛されているがゆえに、神を愛する者とされている。愛されているがゆえに、イエスに従う者とされている。愛されているがゆえに、互いに愛するように導かれる。イエスと同じように感じ、同じように考え、同じように行動するために、神は我々を愛してくださった。今も、愛してくださっている。この愛がいつもあることを忘れないために、我々は礼拝へと招かれる。神の愛を改めて受け取るために、礼拝が備えられている。すぐに忘れてしまう我々のために、神は礼拝を設定してくださった。有り難さを忘れてしまう人間のために礼拝を設定してくださった。有難いことは、「有る」ことが「難しい」のだから、簡単に有るわけではない。困難を、苦難を通って、今有ることが可能となっている世界。キリストの十字架の苦難を通って、今あるようにされている世界、有り難い世界を忘れないために、神は礼拝を設定してくださり、週毎に新たに呼び覚ましてくださる、我々の魂の認識を。
この呼び覚ましは聖なる霊の働き。父なる神と主イエス・キリストからの愛を、我々の魂の上に注いてくださる聖なる霊。このお方を我々に与えることがイエスの願いであった。イエスの愛がこのお方を我々に送る。父なる神の愛が、聖霊を我々に注ぐ。この霊の働きは受け取るだけ。自らの力によらず、与えられる霊を受け取るだけ。そのとき、あなたは見ているであろう主イエスを。生きているであろう、主イエスと共に。イエスを見せ、あなたを生かし給う聖なる霊があなたのそばにおられ、あなたのうちに働いてくださるように。祈ります。

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