「神の理性」

2020年5月24日(主の昇天主日)
ルカによる福音書24章44節~49節

「そのとき、彼は開いた、彼らの理性を、書かれたことたちを共に送るための理性を」と言われている。イエスが弟子たちの「心の目を開いた」と新共同訳は訳しているが、「心」という言葉も「目」という言葉も原文にはない。原文に記されているのは「理性」ヌースである。理性にもいろいろあるということである。「書かれたことたち」とは聖書のことであるが、聖書に同意し、理解する理性は開かれなければ働かないということである。
理性というものは、物事を魂に受け入れるものである。受け入れるか、受け入れないかを判断するのが理性である。一般的な事柄に対しては、我々人間は理性が働くこともある。感情に流されて、理性を働かせることさえもできない人もいる。そのような人は、幸いにも災いにも理性的に対応することができない。自分の感情だけではなく、この世の趨勢に左右され、押し流されていく。これが罪人の性である。
この世の事柄に対して、理性的に対応できる人であろうとも、神の事柄に対しては理性的に対応できない。神の事柄に対しても、この世の理性で対応する。この世の論理、この世の価値によって判断する。それでは、神の事柄は判断できない。この世の価値では、神の事柄は認識さえもできない。聖書が分からないというのは、この世の理性で読み、考えるからである。聖書が神の霊によって書かれたということは、神の霊が与えられていなければ理解できないということである。この世の価値からはかけ離れているがゆえに、理解できようはずはない。それゆえに、イエスは弟子たちの理性を開いた。しかも、神の事柄である「書かれていることたちに同意し、受け入れる」ための理性を開いた。それによって、弟子たちは聖書が語っていることが実現したと受け取ることができるようにされた。それが聖霊を与えられることである。
なぜなら、聖霊は神の霊であるがゆえに、神の事柄を理解させるように働くからである。聖霊が与えられていなければ、聖書を理解することはできない。聖書に書かれていることたちを自らの魂のうちに受け取ることはできない。弟子たちは、イエスの十字架を聖書に書かれていることとして受け取ることができなかった。復活後のイエスによって、聖書を理解する理性を開かれて、ようやく理解するところに立たされた。これが、今日の日課が語っていることである。
この世の事柄についてはなんとか理性を働かせることができたとしても、神の国についてはできない。この世の理性では、神の国を理解することはできない。この世の理性で理解する神の国は、平和な国、皆が仲良しの国、争いがない国というような、我々がこれが良いと考えるような国である。そのような国が成り立っていないことを誰もが知っている。知っていながら、理想の国として標榜する。しかし、誰もそのように生きようとはしない。この世の価値の中で、考えるがゆえに、自分の思い通りに行かないと他者を批判することになる。しかも、あくまで自分を中心に考える理想の国なのだから、自分が悔い改めるということがない。それゆえに、この世の価値によっては、神の国を理解することはできない。この世の価値で考えれば、最大多数の最大幸福しか視野に入らない。そのために、最小の人たちが切り捨てられる。イエスの当時も同じ価値観の中で、この世は動いていた。そして、イエスを十字架に架けた。それがこの世の価値である。イエスがいなくなれば、平和になると考えたのである。このような理性判断は、強者の論理である。弱者から見る世界ではない。低さから考える世界ではない。これがこの世の理性であり、罪に支配された理性である。
弟子たちの理性もそのようであった。しかし、イエスは新たに神の理性を開き給うた。それによって、弟子たちは、神の事柄に同意し、受け入れることができるようにされた。これが、聖霊の働きであり、聖霊降臨の出来事を示している。聖霊降臨が起こっていないにも関わらず、聖霊が働いているのである。ということは、聖霊降臨の出来事は、聖霊が働いている中にあって生じているのである。ペンテコステの日に、聖霊が働き始めたのではない。ペンテコステの日に起こったのは、イエスによって開かれた神の理性である聖霊がもたらす認識に従って、弟子たちが動かされたという出来事である。
この聖霊の働きは、認識、同意、受け入れへと導き、受け入れた事柄を実行するように働く。弟子たちが受け入れた事柄が彼らの魂と一つとなって、働き始めたのが聖霊降臨なのである。そうであれば、聖霊降臨の出来事は、我々一人ひとりに日々起こりうることなのである。2000年前のペンテコステの日に起こっただけではなく、我々の日々に聖霊が働き、我々を押し出していくとき、我々はペンテコステの出来事を経験しているのである。
さて、神の理性が働くようにされる聖霊降臨に至るためには、イエスの昇天が必要なのであろうか。ここでイエスは弟子たちの理性を開いたのだから、昇天しても、昇天しなくても、変わらないのではないのか。何故に、イエスの昇天が必要なのか。イエスが弟子たちに使命を与えることが必要だったからである。さらに、イエスの再臨を待ち望みながら、使命に生きるために必要だったのである。昇天は、再臨を期待させる。それゆえに、使徒言行録では天使が弟子たちに言う。「そのように、やって来るであろう、あなたがたが天へと行った彼を見たと同じように」と。天へと行ったと同じように、やって来るであろうということは、再臨である。そして「同じように」とは、神によって天へと上げられたと同じように、神によってやって来るということである。つまり、神の定めた時にやって来るのである。その時がいつであるかは分からない。それでも、弟子たちは再臨の期待の中で、宣教する。イエスご自身を証する。イエスの出来事を証しする。
イエスの昇天は、弟子たちの地上での生に希望を与える。待ち望む希望を与える。待ち望みながら使命に生きる希望を与える。イエスが昇天したことによって、神の出来事が必ずや実現すると信じる信仰に立つことができる。イエスが昇天したがゆえに、如何なるときも如何なる場所でも、イエスは彼らのそばにいる。聖なる霊を通して、そばにいる。目の前から見えなくなることは、永遠にそばにいること。見えないことによって、より身近にイエスを感じることができる。それが昇天によって実現する神の新しい世界。神の民の世界。神の子たちの世界。この世界は、我々人間のこの世の理性が求めるような世界ではない。あくまで、神が実現したまう世界。それゆえに、誰も排除されない。ことに、弱い立場の人たち、低くされている人たちがまず迎えられる世界。そのような人たちが顧みられる世界。もちろん、神によって顧みられる世界。だからこそ、彼らは、人間から排斥されても、迫害されても、うろたえることはない。彼らが見ている世界は、この世ではないのだから。彼らが見ているのは、イエスが来たる再臨の世界なのだから。
我々は、神の理性によって、来たるべき世界を望み見る。神の理性によって、来たるべき世界に入る。神の理性によって、来たるべき世界が今神の許に実現していることを受け取る。それゆえに、この世で如何なることがあろうとも、落胆することはない。ただ、神の善を信じて、なすべきことをなす。それだけの単純な生を生きることができる幸いを喜ぶ。これが神の理性を与えられた者の喜びである。
あなたがたは神の理性を与えられた者。イエスの十字架によって、神の理性を開かれた者。神の理性である聖霊を与えられた者。何も恐れることはない。あなたは神の愛を受けている。神の顧みを受けている。神の憐みに包まれている。罪の理性を捨てて、神の理性に生きていこう。罪の理性が我々を縛り付けることはない。十字架の苦難を通して、神の理性を開いてくださったイエスに従って、歩んでいこう。あなたの歩むべき道は、イエスの再臨へと向かう道。イエスと共に、神の国に生きる道。来たるべき世界に向かって、歩み続けていこう、イエスの十字架と復活を証しして。
祈ります。

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