「胎からの河」

2020年5月31日(聖霊降臨祭)
ヨハネによる福音書7章37節~39節

「ちょうど、聖書が語っているように、河たちが彼の胎から、流れ出るであろう、生きている水の河たちが」とイエスは言う。原文では「彼の胎」となっているが、新共同訳は男に「胎」はないと考えて、「その人の内から」と訳している。ギリシア語のコイリアは「腹」や「内臓」とも訳されるが、生命を宿す「胎」を意味する言葉である。それゆえに「胎」から流れ出るのは「生きている水の河」だと言われるのは当然である。
イエスへと信じる者には「胎」がある。いのちを宿し、はぐくみ、そこから河が流れ出る「胎」がある。そうイエスはおっしゃる。これは、イエスへと信じる者は、イエスと同じようにいのちをはぐくみ、溢れさせる存在となるということである。これが聖霊だとヨハネは語っている。つまり、聖霊はいのちをはぐくみ、外へと溢れ出すように働くということである。聖霊を受け取った人は、外に向けて、働くのであり、外に溢れ出すのは聖霊の働きの必然だというわけである。
しかし、聖霊の働きを人間自身が制御することはできない。流れ出すのは聖霊ご自身の力である。いのちをはぐくむのは聖霊の働きである。人間がイエスへと信じることによって、その人は「胎」を与えられる。従って、その「胎」は信仰だと言える。「信仰」から、すべてが流れ出て、他者を潤し、他者をはぐくみ、他者へと信仰を伝えて行く。この信仰を与えるのも、聖霊の働きである。従って、聖霊が一人ひとりに「信仰」という「胎」を与えて、そこから流れ出る「河」が生じるのである。
この河は、どこから流れてきて、どこへと流れていくのか。神の許から流れてきて、神の許へと流れていく。その流れを、この世の中で流れさせる「胎」が「信仰」であり、一人ひとりのキリスト者の「胎」である。それぞれに与えられた「胎」があるが、その「胎」は一つの「胎」であり、一つの信仰である。それゆえに、「胎」は一つ。その流れを流れさせるのは神であり、イエス・キリストは「胎」を開き給うお方である。イエス・キリストは、十字架を通して、その栄光を現し、キリストの栄光を通して、一人ひとりに「胎」が与えられ、開かれる。この「開かれる」出来事が聖霊降臨である。
使徒言行録2章3節に記されている弟子たちの姿にあるように、一つの「火のような舌」が「分かれ分かれに見られた」のである。一つの火が分かれても一つの火である。火は、分かれても火である。それは増えていくが一つの火であることを止めない。火が点ることが示しているのは、今まで消えているように思えたところに火が点いて、開かれた出来事である。それゆえに、弟子たちは同じことを語り始めた、さまざまな国の言葉で。
彼らが語ったのは「神の大いなる働きたち」についてであった。彼らから語られる言葉の源泉にあるのは「神の大いなる働きたち」である。つまり、「神の大いなる働きたち」があって、イエスによって「胎」が開かれ、火が点され、語りが流れ出ていった。父なる神と御子と聖なる霊の流れは一つの火のように一人ひとりに点され、流れ出ていく。これが聖霊降臨の出来事において起こった神の「胎」から流れ出る河である。
胎からの河が示しているのは、父と子と聖霊との一つの働き。三位一体の神の働きである。三位一体の神の出来事が、我々一人ひとりをキリスト者として起こし、それぞれに信仰の「胎」を与え、「生きている水」の「河」を流れさせる。我々キリスト者は、三位一体の神の働きに用いられているのである。この流れを止めてはならない。しかし、この流れを流れさせるのは人間ではない。我々が、誰か特定の人に、この流れを流すのではない。流れは、神が流れさせるのだから、我々人間が流れの方向を決めるわけでもなく、流れを与える人を決めるわけでもない。ただ、神が流れさせるように、流れる河となるのである。これが聖霊に導かれる我々キリスト者の生なのである。
この生の中で、我々は河が流れ出るように生きる。「胎」を与えられて生きる。この生を神は何故に与え給うのか。神の意志がこの世に流れることを願って与え給う。神の意志が河のように流れることによって、いのちが回復されていく。いのちが見失われているところに、河が流れる。不毛の地に河が流れる。死を恐れる地に生きている水が流れる。生きている水を受けた者は、死を恐れることはない。神から流れ出て、神へと帰って行く自らを知っているのだから。
我々の源泉は神にある。神がすべてを流れさせている。すべてを流れさせているとは言え、その流れを自らの益となるように変えようとする人間がいる。そのように働くのが罪人である。我々キリスト者は、神が流れさせる河を生きるが、河が河として流れるに任せる。流れる河に従う。我々が河を作るのではない。神が造り給う。神が流れを造り給う。神が行く先を定め給う。その神に信頼する「信仰」が与えられている者は、神の意志をこの世に供給していく。いのちの意志を供給していく。いのちの水を供給していく。こうして、我々が思うようにではなく、神が思うように流れる河として、我々は自らの「胎」から河を流れさせるのである。そこには、生きている水が流れていくのだから、我々が流れさせる河によって、他者が生きることになる。他者が生かされるように生きる河として、我々は生きる。これが聖霊を与えられた者の生き方である。
イエスは、この言葉を「祭」が最高潮に達するときに、叫んだと言われている。「渇いている者は誰でも、わたしのところに来て、飲みなさい」と。この言葉によって、イエスが語っているのは、「渇いている者」と自覚している者が、イエスのところに招かれているということである。イエスのところで飲む人が与えられる水は「生きている水」であり、その水が「胎」を与える水となる。イエスが「信仰」を与え、いのちをはぐくみ、流れさせる河を開いてくださるとおっしゃっているのだ。サマリアの女と出会ったときにも同じようなことをイエスは語っておられた。
渇いていると自覚している者が潤されるのは、生きている水を他者に供給することにおいてだということである。サマリアの女にもそうおっしゃっている。そこでは「泉」であったが、ここでは「河」である。どちらも他者に水を供給するものである。供給することにおいて、渇きが癒される。供給することによって、他者が癒されるだけではなく、自らも癒される。渇きの自覚が、他者の渇きへの共感となる。イエスの許に、生きている水を求めてやって来る者は、他者の渇きを知り、生きている水の河の流れによって、他者と共に潤されていく。これが、イエスがおっしゃっている聖霊によるいのちの供給の出来事である。
いのちは、与えることによって、豊かになっていく。一つの火が、分かれ分かれに与えられることと同じく、一つのいのちが分け与えられることによって、豊かな流れが溢れていく。自らのいのちを守ろうとするならば、流れは閉ざされていくであろう。自らのいのち、自らの魂を、他者のために置くことによって、自らも他者も神の豊かな流れに潤されていく。これが、聖霊を与えられた者の生き方である。
聖霊降臨の出来事は、神の不思議な力を与えられた出来事ではあるが、それは流れのように流れていく出来事である。それゆえに、自らの許に留めようとしてはならない。あくまで、神の意志に従って、流れさせるだけである。そのように生きるいのちは、「生きている水」のように、他者を潤し、自らも潤され、豊かになっていく。我々は、この聖霊降臨祭の日に、神のいのちの世界が開かれたことを感謝しよう。我々が、その流れの中に置かれていることを感謝しよう。我々の胎から流れ出る河が、他者のために流れる河であることを感謝しよう。
あなたは、胎を与えられている。あなたは、流れる河とされている。あなたは河の源泉である神から生まれた者。河が流れていく。あなたの胎から流れていく。聖霊の河が流れていく。神の河が流れていく。流れる喜びの中で、活き活きと生きていこう。
祈ります。

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