「沈めと教え」

2020年6月7日(三位一体主日)
マタイによる福音書28章16節~20節

「わたしは、あなたがたと共に、存在している、すべての日々に、世の終わりまで」とイエスは弟子たちに言う。「世の終わりまで」の「すべての日々に」と言う。イエスが共に存在しない日は一日としてないということである。しかし、イエスが共に存在するとはどういうことなのか。天に上げられたイエスは、弟子たちから離れて行ったのではないのか。弟子たちと共に存在しなくなったのではないのか。しかし、聖霊が弟子たちと共に存在することにおいて、イエスは聖霊の働きによって、弟子たちと共に存在する。さらに、弟子たちがイエスの語ったことに従うことによって、イエスは共に存在する。それが「沈め」と「教え」において、イエスが共に存在する在り方である。
「沈め」とは洗礼のことであるが、その沈めの方向が示されている。「父と子と聖なる霊の名へ」という方向である。ここで使われている前置詞エイスは、「~の方へ」という方向を示すと同時に、「~のうちへ」という包まれる方向と包む主体を示す。従って、「父と子と聖なる霊の名へ」と言われている事柄は、三位一体の神の名のうちへと「沈める」ということである。三位一体の神の名を信頼し、神にすべてを委ねることが、ここで言われている「沈め」、洗礼なのである。
この沈めにおいて、沈められた存在は、三位一体の神の名のうちに包まれる。包まれた存在は、包み給う神にすべてを委ねて生きる。それは、神ご自身がその人を受け入れておられるからである。受け入れられた者が、受け入れ給うお方に委ねる。これが、洗礼である。旧約聖書学者の関根正雄は信仰についてこう述べている。「神の言葉が与えられると、その中に自らを堅くすること、それが信仰です」と。良く分からないと思うかも知れないが、神の言葉に信頼するということである。神の言葉の中に自らを堅くするということは、神の言葉から離れないということである。もちろん、離れないのは、神の言葉が離さないからである。神の言葉は、語りを聞いたその人を受け入れている。受け入れられているということを受け取ったその人が、神の言葉の中に自らが包まれていることを受け入れる。こうして、神の言葉がその人と共に存在する。それゆえに、イエスは「沈め」と「教え」を一つのことのように語るのである。それが「弟子にする」ということである。
しかも、ここで「名」と言われていることは重要である。「名」はその名が与えられている存在そのものを指し示す。名のない存在は、存在を認められないだけではなく、存在していないということになる。「名」によって、その人を呼ぶことができる。「名」によって、その人を認識することができる。「名」によって、その人と交流することができる。「名」は、単なる印ではない。名があることで、その人自身が存在を認められ、存在することを示すことができる。「名」はその人そのものなのである。すると、ここで「名へ」と言われていることは、「父と子と聖なる霊そのものの中へ」ということになる。父と子と聖なる霊に包まれて、そのうちで神の名を呼び、祈り、讃美するということである。教えを聞き、守るのも、包まれているがゆえである。この包まれる状態が「沈め」であり、包まれて生きる状態が「教え」である。教えには、聞き、悔い改め、祈り、讃美する礼拝が含意されている。それゆえに、我々は「父と子と聖霊の御名の中で」礼拝を守るのである。
さて、この教えが重要であるのは、キリストの説教だからである。キリストが弟子たちに教え続けた言葉が聖書である。その教えは、キリストの説教である。聖書の中で、キリストは弟子たちや群衆に語り給うたが、それは説教し給うたということである。キリストの説教が「教え」なのだから、キリストが語り給うことをそのままに聞かせることが、ここで言われている「教え」である。自分の思想を教えるのではなく、キリストの説教を教える。それゆえに、「教え」において、キリストが存在し給う。キリストの説教が語られず、この世の思想、人の思想が語られるところには、キリストは存在しない。あくまで、キリストの説教の中に、キリストは存在し給う。それゆえに、イエスはこうおっしゃっている。「あなたがたにわたしが命じたすべてを守るように、彼らに教えて」と。「守る」ということは、付け加えることなく、差し引くことなく、そのままに保持して、従うということである。弟子たちはキリストの説教をそのままに「教える」のである。
「沈め」と「教え」において、弟子たちは異邦人たちを弟子とすることが可能とされる。弟子たちが自分たちの弟子にするのではない。キリストの弟子とすること。あくまで、みことばを語り給うキリストが、その人を受け入れているという信仰のうちで、弟子たちは「沈め」と「教え」を実行する。それら自体は弟子たちが行っているように思えるが、そうではない。キリストが行っておられる。キリストが「沈め」と「教え」を命じ給い、そのうちで働き給うがゆえに、すべてはキリストが実行しておられる。弟子たちと共におられるキリストが「沈め」の主であり、「教え」の主である。それゆえに、「あなたがたと共に存在している」とイエスは言う。共に存在するがゆえに、弟子たちは人間を恐れる必要はない。迫害を恐れる必要もない。人々を説得する必要もない。キリストの説教をそのままに語り伝えるだけ。それだけで、キリストの説教が一人ひとりを受け入れ、弟子として形作ってくださる。弟子たちの力ではなく、みことばの力が我々を弟子にする。弟子とされた者たちが教会として生きる。「沈め」と「教え」によって、個々の教会が作られるのではなく、キリストの弟子たちの群れが生まれる。終わりの日には、キリストの弟子の群れとして、神の御前に立つ。そこに至るまで、一人ひとりが派遣される。「沈め」と「教え」へと。
この「沈め」と「教え」は、個人的な働きではない。あくまで、教会としての働きである。弟子たちにイエスは「あなたがた」とおっしゃっている。複数形で「あなたがたがは弟子にしなさい」とおっしゃっている。弟子たちは複数形の「あなたがた」である。弟子にされる人たちもまた、「あなたがた」として派遣される。キリストの説教を聞き、弟子にされ、派遣される。これが世の終わりまで繰り返される中に、キリストは「あなたがたと共に存在している」とおっしゃるのである。「あなたがた」が教会である。「あなたがた」が沈める。「あなたがた」が教える。「あなたがた」を包み給うお方が、語り給う。世の終わりまで、語り給う。これが今日、弟子たちに与えられた希望である。
「沈め」と「教え」の働きは、礼拝を通して実行される。礼拝以外では、この働きは行われない。それゆえに、我々は礼拝に集められ、礼拝に招くのである。礼拝に結びつかない働きは、イエスの委託を生きることができない。イエスの語りがそのままに語られることのない働きは、イエスの委託ではない。イエスの委託に従うことによって、教会が教会として形作られ、一人ひとりのキリスト者が生み出される胎となるのである。キリストの言葉、神の言葉が、神の胎、信仰を与え給う胎、信仰そのものである胎。「沈め」と「教え」において、我々は神の胎に入れられ、神の胎から生み出される。弟子とされる。十二弟子を弟子としたのがキリストであるように、我々もキリストによって弟子とされている。キリストの言葉を聞き、悔い改め、讃美し、祈る群れとして、我々は弟子である。
キリストの説教が語られるように、宣教する。それが礼拝における説教である。そこにおいては、語る者も聞く者も、共にキリストに用いられている。礼拝における応答の中で、キリストは語り給う。キリストは我々と共に存在しておられる。あなたがたの聞く言葉のうちに。あなたがたの歌う讃美のうちに。あなたがたの献げる祈りのうちに。あなたがたの信仰のうちに。世の終わりまで、聞き続け、語り続ける宣教のうちに、キリストは共に存在し、あなたを生かし、用いてくださる。聖餐の中に、共に存在し給うキリストをお迎えしよう。我々がキリストの教会として生きるために。
祈ります。

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