「第一を第一に」

2020年6月14日(聖霊降臨後第2主日)
マタイによる福音書6章24節~34節

「しかし、あなたがたは探しなさい、第一に神の国を、そして彼の義を。そして、これらすべてのものは付け加えられるであろう、あなたがたに」とイエスは言う。「第一に」探すべきは「神の国」、「神の支配」、そして「彼の義」だと言う。「神の国と彼の義」とは「神の支配と神の支配の義しさ」である。神の義しい支配を「探す」ことをイエスは求めておられる。神の支配とその義しさということが「第一」であって、その他のものは付加されるものだと言う。第一のものを第一とするならば、その他は自ずと満たされるというわけである。
我々は、第一のものを第一とせず、自らを第一とした。それが堕罪である。神を第一とせず、自らの力、自らの思いを第一とした。しかも、蛇に唆されてそうしたのだ。それにも関わらず、自ら責任を負うことなく、他者に責任転嫁した。これが第一を守ることができなかった我々人間の罪である。このような人間が、第一を第一にすることができるのであろうか。それができるならば、罪を犯すことはなかったであろう。我々は、蛇に唆されたとは言え、第一を第一にすることができなかったのだ。そのような人間に対して、イエスは「まず、神の支配と神の義しさを探せ」とおっしゃる。「探す」のである。探すということは、探すものが分かっていてできることである。分からないものを探すことはできない。それゆえに、イエスは、探すべきものを示し給うた。それが「神の支配」と「神の義しさ」である。
どこを探せば良いのか。それは、これらすべてのものが付加される以前において、探すということである。付加は、第一のものの後である。後に付加されるものばかりを探していては、第一を探すことはできない。付加されるものばかりを探し求めていても、付加される前のものが見失われているのだから、付加されるものの存在根拠が結局見失われている。だから、いくら探し求めても、切りがないのである。そこに安心はない。平和もない。奪い合いがあるだけである。このような状態に陥っている我々人間に、イエスは言う。「まず、あなたがたは探しなさい、神の支配を、そして、彼の義を」と。「まず探す」ことで、その後の付加物は付加されると言う。我々は、それを信じることができるのだろうか。できないのである。なぜなら、第一のものは見えないからである。しかし、付加物も今は見えないが、探すべきものは知っている。だから、付加物だけを探してしまう。付加物だけが我々に分かるものだからである。
では、第一のものである神の支配は、我々には見出し得ないということになる。見えないものを探すというのは、信仰の問題なのである。見えるものである付加物を探すのは、現実の問題である。そこに信仰は必要ない。いや、信仰など邪魔になると、誰もが考える。見えないものを探していても、何も現実は変わらないと考える。それゆえに、現実が変わるかに思える付加物を探し求める。こうして、第一を見失う。いや、第一を捨てる。そして、付加物だけを取り扱う技術を発展させる。それが、我々の現実であり、我々の世界、我々の国、我々の支配である。
人間の支配は、付加物を支配しようとする支配。神の支配は、付加物の前のもの。いや、付加物を付加してくださる支配。あくまで「付加物」であることを変えることのない支配。第一の支配がなければ、付加物は存在しない。それゆえに、我々人間の支配は、第一のお方である神がおられてこそ可能なのである。第一のお方である神が付加物を創造し、与え給う。神が付加物の主。それゆえに、付加物の前に存在したまうお方。我々人間以前に存在したまうお方。支配し給うお方。このお方を捨てて、自分たちの世界、自分たちの支配を造ろうとした人間は、その時点で神を捨てた。第一を捨てた。それゆえに、付加物を探し求めて、右往左往することとなった。汗をかいて、土を耕すことになった。苦しんで子を生むことになった。イバラが邪魔をする中で、耕さなければならなくなった。第一を第一にしなかったがために、現在の状態が招来された。我々は、このようなところに自分たちでやって来たのだ。自分たちで、自分たちの現状を招いたのだ。その責任を忘れて、神に向かって祈る。「主よ、主よ」と助けを求める。しかし、第一を第一にするということは、自らの責任を認めて、第一のお方の前にひれ伏すということである。悔い改めることである。悔い改めがなければ、第一を第一にすることはできない。
「悔い改め」とは方向転換である。魂の方向転換、それが「悔い改め」である。我々の魂が、自らの支配を拡張しようと躍起になってやってきた結果、自らの現状を招いてしまったことを認めることから「悔い改め」が始まる。我々の魂は違う方向を向いていたのだ。神に向かうのではなく、人間に向かっていた。付加物に向かっていた。付加物の確保に向かっていた。まず、神を神として従わなかった。これを認め、受け入れるとき、我々は第一を第一にする地点に立っている。この地点に、キリストの十字架が立っているのだ。
キリストは第一を第一にしたがゆえに、十字架に架けられて、殺害された。第一を第一にすると殺害される。それがこの世の支配である。しかし、神はキリストを復活させ給い、第一を第一にすることが如何なることであるかを示し給うた。十字架を仰ぐことによって、我々は第一を第一にする力をいただく。たとえ、この世の人間から馬鹿にされようとも、第一を第一にする者はキリストと共に復活させられる。神の支配がこれを実現したまう。
付加物は、どれだけ持っていようとも付加物でしかない。この弁えの中で、生きることが、神の支配を探すことである。彼の義を探すことである。このようなところへと、我々を導くために、イエスは語り給う。十字架の上から語り給う。十字架の言葉は、愚かなものに思えるが、神の力である。十字架の言葉を聞く者は、神の力によって生きる。神の力によって可能とされる生を生きる。それゆえに、心配する必要はない。必要なものは、神がご存知である。神が備えておられる。神が導いてくださる。第一を第一にする者は、神の支配の中で育まれ、神の国へと至る道を歩み続ける。この世にあって、第一の神を探す者が最終的に至る神の国。その国こそが、我々が生み出された神の胎。我々が安らうべき、神の懐。この国をこの世にあって探している者は、すでに神の国に生きている。第一を第一にしているからである。
我々の世界は、第二のもの、第三のものでしかない。いや、もっと後で付加されたものでしかない。この弁えを持って生きている者は、第一のものを探している。この弁えを持って生きている者は、自らの小ささを認識している。自らの罪深さも認識している。そして、神の大きさを知っている。それゆえに、神の前にひれ伏す者が第一を第一にする者である。しかし、イエスがおっしゃるように、「明日は炉へと投げられる草」を神は装い給う。神は、鳥を養い給う。これらの小さき存在を顧み給う神の支配を知る者は、神の付加物が確実に与えられていることを知る。何も心配する必要はない。必要なものは必ず与えられる。
我々は、小さくとも愛されている。弱くとも憐みを受けている。貧しくとも守られている。あなたを造り給うたお方は、あなたの存在に責任を持ってくださるお方。ただ、愛するために、あなたを創造してくださった。このお方を第一にしているあなたは、このお方に大事にされていることを受け入れている。受け入れていることがあなたの現実となる。だから、信じるだけで良いのだ。信じることさえも、このお方の働き。あなたは、素直に、純粋に、このお方の起こし給う思いに従って生きるだけ。それだけで、すべては満たされる。善きお方の意志がなっていく。
我らの主イエス・キリストの十字架があなたに語っている通り、あなたは生かされる。第一である神の支配があなたを包んでいる。あなたはキリストと共に、自分に死に、神に生きる者。第一を第一にする信仰のうちに、生きていこう。神は、あなたのすべてを支配し、満たしてくださる。
祈ります。

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