「基礎の基礎」

2020年6月21日(聖霊降臨後第3主日)
マタイによる福音書7章15節~29節

「なぜなら、彼は教えていたから、権威を持つ者のように、そして、彼らの律法学者たちのようにではなく」と言われている。イエスは「権威を持つ者のように」教えていた。律法学者たちと何が違うのか。自らの責任において教えるということである。律法学者たちは、「ラビ誰々はこう言っている」というように教える。これは「教える」ことではなく、他の人の解釈を引用しているだけである。自らが伝えていることを心から信じてはいないとしても、「誰々がこう言っている」と言える。その教えを批判されれば、「それはわたしが言ったのではなく、あのラビが言ったのだ」と責任転嫁すれば良い。自ら責任を負わない。「権威を持っている」ということは、自らの責任において発言し、教えるということである。それがイエスであった。それゆえに、批判はご自身で引き受ける。責任を自らが負う。それが権威を持っている者である。
「権威を持っている」ということは、真実なる「権威」そのものから与えられている「権威」である。それゆえに、その人に「権威」があるわけではなく、権威そのものが付与した「権威」を持っているだけである。しかし、「権威」を付与されたことを引き受けているので、「権威」を持っている者として責任を負う。しかし、「権威」を持っていない者は、引き受けもしない。自分の都合が悪くなれば逃げ出す。そして、「権威」を持って語った人の責任にしてしまう。これが律法学者たちである。彼らは何も教えることができない。「権威」を持って教えるのでなければ、教えることはできない。結局、イエスの十字架は、イエスが「権威」を持っている者として教えておられたがゆえに、必然的に生じたと言える。イエスは、ご自身の教えに対する批判を引き受けた。そして、十字架も引き受けた。それがイエスの在り方であった。
この引き受けが可能になるために何が必要なのかをイエスは教えておられる。岩の上に「基礎を据える」ということだと。岩の上に基礎を据えるということは、基礎を揺るがないものとするために、揺るがない大岩の上に基礎を据えるということである。基礎の基礎が大岩である。基礎を支えるのが大岩である。つまり、イエスが従っている「権威」そのものが大岩である。イエスは大岩ではなく、大岩の上に基礎を据えているお方。父なる神の権威の上に生き、語っておられるのがイエスである。それゆえに、イエスは揺るがない。誰に批判されようとも揺らぐことはない。父なる神の上に基礎を据えているからである。
「権威を持っている者」は、「権威そのもの」が責任を負うように、自らも責任を負う。「権威そのもの」に責任があると逃げることはない。自らも「権威」によって委託されたことを引き受けているからである。基礎の上に基礎を据えた者は、揺るがないだけではなく、自らの責任を負い、自らの為すべき働きを為していく。このような生き方をイエスは人々に求めた。それゆえに、口先だけで、「主よ、主よ」と呼ぶ者を退ける。
このような人たちは、自らの責任において行動していない。「あなたの名によって」預言し、悪霊を追い出し、神の可能とする力を行なったと言う。それらは「あなたの名によって」の行いなのだから、わたしを受け入れてくれるようにと求める。それは、責任を負っている行為ではない。信じるように生きたのであれば、その結果は信じたお方に委ねる。そして、自らの責任を負う。自らの行為の結果として、最後に救われると思い込むことではない。救われるから行うことではない。すでに、救われているがゆえに、行うのである。それが、基礎の上に基礎を据えるということである。基礎の上に基礎を据えていない者は、結局不安である。不安であるがゆえに、確信を与えてくれる何かを求める。基礎の上に基礎を据えている者は、何も不安に思うことはない。基礎を知っているからである。その上で、自らの責任において行動しているからである。
我々は、基礎の上に自らの基礎を据える者。キリスト者とはそのような者である。従って、キリスト者は揺るがない。キリスト者はキリストのように生きる。為すべきことを為して、責任を負って生きる。たとえ他者に批判されようとも逃げることはない。誰も受け入れないとしても、為すべきことをみことばに従って為す。その人の基礎が大いなる岩を基礎として据えられているがゆえに、為すべきことを知り、為すべきことを為す力も大岩からいただく。キリストが十字架を負われたように、自分の十字架を取って、イエスに従う。自分を捨てている者として生きるがゆえに、自分が救われるために何かを行うということがない。救われていると信じている。基礎の基礎である大岩の上で救われている。救いは、大岩にあると信じている。
このような者が「天にあるわたしの父の意志を行っている者」だとイエスは言う。自分を救い給うたお方の意志を行うということは、自分の救いのためには何も行う必要はないと信じることである。それゆえに、他者のために行う。反対に、自分のために行う者を、イエスは「不法を行う者」と呼んでいる。「不法」とは「法にあらざること」である。法を逸脱していることである。逸脱しているということは、法に従わず、法を捨てていることである。ということは、「自分の救いのために行う者」は「法」を捨てているということになる。どうしてなのだろうか。
ここで言われている「法」は、神の意志である。神の意志は、人間が自分のために生きるのではなく、他者のために生きることを求めている。自分のために生きる者は神を神とすることはない。自分のために生きる者は殺人を犯す。自分のために生きる者が偽証する。それが「偽預言者」と言われている者たちである。自分のために生きているがゆえに、その人はすべての人を利用する。自分の救いのために利用し、自分の利益のために利用する。利益になることは自分の成果であり、損になることは他者の失態である。
このような存在を、羊を身につけている狼ともイエスは言う。このような者は気を付けていないと騙されてしまう。羊を身につけているので、見た目は柔らかい。親切で、自分のためにいろいろとやってくれるように思える。しかし、責任は負わず、最後は見捨てて逃げてしまう。あるいは、食い物になると分かれば、骨の髄まで食べ尽くす。このような狼がいる。偽預言者がいるとイエスは言う。それゆえに、気を付けているようにと教える。親切な人を信用してはならない。柔らかそうな人を信用してはならない。その人が善なる木であるかどうかは、その人の作る実によって分かるとイエスは言う。どのような実なのだろうか。最後まで責任を負う実である。なぜなら、神の意志は一人ひとりが神の意志に従う責任を負うことを求めているからである。反対に、罪は責任転嫁するのである。
このイエスの教えは、ご自身が責任を持って、人々を導くために語られている。ご自身が責任を負うという前提で語られている。ご自身の負うべきものを負って、教えておられる。それゆえに、イエスの教えはイエスご自身の生き方と一つである。イエスの十字架と一つである。イエスの復活と一つである。イエスの生と十字架と復活とがイエスの教えである。これを、使徒パウロは「十字架の言葉」と呼んだ。イエスと同じように生きることを教えるイエスの十字架。我々は、それが可能なのだろうかと訝るであろう。しかし、可能なのだ。イエスが教えておられるのだ。イエスが責任を持って教えておられるのだ。イエスが権威を持って教えておられるのだ。その教えは、我々を促す神の力。如何なることにも妨げられることなく、神の意志を実現する力。基礎の基礎なる力。我々の人生を神という基礎の上に据えてくださる力。イエスの十字架が我々を据えてくださる。イエスの十字架と復活を実現してくださった神が、我々の基礎である。我々がこの基礎の上に生きる力を与えるために、キリストは聖餐を設定してくださった。聖餐を通して、キリストがあなたのうちに形作られ、あなたを基礎の基礎に生きる者としてくださる。感謝していただき、善なる木キリストに生きていただこう。
祈ります。

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