「共食と憐れみ」

2020年6月28日(聖霊降臨後第4主日)
マタイによる福音書9章9節~13節

 「そして、彼は言った、『わたしに従え』と。そして、かれは再び立って、彼に従った」と記されている。イエスはどうして「わたしに従え」と言ったのか。マタイが「座っていた」からである。彼は、イエスの言葉を聞いて、「再び立って、彼に従った」と記されている。「再び立って」という言葉は、アナスタシス復活を意味する言葉であるが、マタイはここで再び立ったのである。復活して、立ったのである。彼は、自分を呼んでくれるお方を知って、このお方について行こうと「再び立った」。それまでの自分を捨てて、新たに立った。それが彼の復活だと言える。
自分の世界は変わりようがないと思い、ずっと座っていたマタイ。彼にとって、世界はどうにもしようがない世界であった。変わりようがないし、自分も変わることできないと思っていた。ところが、イエスの言葉を聞いたとき、彼は「再び立った」のだ。どうしてなのか。イエスの言葉が彼に「立つ」ように促したからであろうか。変わりようがない日常から解放してくれる力を感じたからであろうか。とにかく、マタイは「再び立った」。そして、イエスに従った。
「従う」という出来事は、イエスに従うことで、何かが変わると感じたがゆえに起こった。変わらないと思っているならば、従うことはなかったであろう。ついて行っても何も起こらないと思っているならば、ついていくことはないであろう。マタイには、抜け出したい日常があった。変えたい日常があった。しかし、変わりようがない自分がいた。変わらない日常だと思っていた。あきらめの気持ちで座っていた。このマタイの日常に、イエスの言葉が入り込んできた。マタイの内側から立ち上がる力が溢れてきた。このお方がわたしをわざわざ呼んでいると、マタイは感じた。こんなわたしを呼ぶ人は誰もいないと思っていたマタイの前に、わざわざ呼んでくださるお方が現れた。ついて行くしかない。
イエスの言葉は、我々を立ち上がらせる力をくださる。イエスが呼ぶという出来事が、我々をキリスト者として形作る。キリスト者として生きる道を開いてくださる。イエスの声が力を与えてくださる。どうしてなのか。それが、イエスが言う「なぜなら、わたしは来たから、義人を呼ぶためではなく、罪人を呼ぶために」という言葉の意味である。
罪人を呼ぶということは、罪人と共に食事をするということである。なぜなら、罪人は食事に呼ばれることはなかったからである。誰も食事に呼んでくれない存在が罪人であった。しかも、罪人同士でも呼び合うことはなかった。なぜなら、罪人は分断されていたからである。ところが、マタイは、自分と同じように座しているしかない罪人たちの思いを知っていたので、彼らを呼んだ。そして、共に食事をした。そこに、イエスや弟子たちもいた。共に食事をするという共食は、受け入れ合うことの象徴である。それゆえに、マタイは自分と同じような境遇に苦しんでいる罪人たち、徴税人たちを呼んで、共食を実施した。呼ばれたことがない人たちを呼んで共食を実施した。それが「憐れみ」だとイエスはおっしゃっている。
「憐れみ」とは、共感である。ギリシア語ではエレオスであるが、引用されているホセア書6章6節の言葉はヘブライ語ではヘセドである。ヘセドとは誠実である。エレオスはヘセドの訳語とされているが、共感することによる憐れみであって、ただ可哀想だと哀れむことではない。自分と関わりのあることとして、共感し、憐れむことが起こる。それは自分自身への誠実であり、誠実であることがヘセドだからである。自分への誠実に基づいて、他者に共感することが憐れみだと言える。それゆえに、イエスが引用したホセア書の言葉は、マタイが他の罪人たちや徴税人たちに示した共感の憐れみを語っている。そして、その思いを起こしたのはイエスの言葉、イエスが呼ぶこと、イエスの召しなのである。マタイは、呼ばれたことに喜びを感じて、自らに誠実に生きるために、他の罪人たちを呼んだ。食事に呼ばれたことがない悲しみを知っている自分に誠実になったがゆえに、他者を呼ぶ憐れみを示すことができた。これがマタイに起こった出来事であり、イエスが彼のヘセドだと認めた出来事である。
このような出来事が生じるために、イエスは一人ひとりを呼んだ。マタイを呼んだイエスは、呼ばれることのない存在が互いを受け入れるように働きかけてくださった。その始まりがマタイを呼ぶことであった。ということは、マタイを呼んだのは、共食という憐れみが生じるためであった。この共食は、単に一緒に食べるということではない。呼ばれない人たちが呼ばれる、神の救いの象徴としての共食である。さらに、共食によって示されているのは、互いに受け入れ合う出来事である。呼ばれない悲しみを経験している者同士が、互いの悲しみを思いやり、呼び合う。それが共食という出来事として現れている。単に一緒に食べれば良いというわけではない。一緒に食べる際のヘセドという自己への誠実が求められていると言える。イエスは、ヘセドを求めておられる。
この憐れみ、ヘセドの根源には神のヘセドがある。神のヘセドによって、受け入れられた者が他者を受け入れるヘセドを実行する。これが、ホセア書が語っていることである。新共同訳では「お前たちの愛」と訳されている。それは「朝の霧」「消えうせる露」と。この原文は、「あなたがたのヘセドは、朝の曇り」である。朝日が昇り、はっきりと見えるようになるはずなのに、朝の曇りの中にある「あなたがたのヘセド」は見えないということである。これはヘセドではないし、神のヘセドを受け取ってもいない。それゆえに、表面的にヘセドの形は取るけれど、すぐに消えてしまう。内面にヘセドがないからであると、ホセアは神の言葉を伝えている。
彼らは自分には神の憐れみが注ぐと言っているが、他者と分かち合うことがない。エフライムについて、神ヤーウェは、どうしたら良いのか分からないと嘆いている。ご自身の心を分かってくれないエフライムに対しても、これまでどれだけヘセドを与えてきたことであろうか。それにも関わらず、彼らは自分が受けるだけで、他者へと溢れることはない。「立ち上がらせてくださる」と言いながら、立ち上がらせ給うた神に従って、どう生きるのかを問わない。自分のために焼き尽くす献げ物を献げても、他者を憐れむことはない。どうして、分かってくれないのかと、神ヤーウェは悲しみに満たされるのである。理解されない神の苦悩が、ホセア書に記されている。この苦悩は、キリストの十字架に極まる。
イエスは、この十字架を負うことを引き受けるが、それは理解されないがゆえである。理解しない人間の罪を引き受けるためである。理解するのは、自分が何かしてもらうこと。受け入れるのは、自分の利益。従うのは、自分の益となることだけ。それが人間の罪であることを受け入れない。十字架は、イエスの益ではない。益にならないことであろうとも、神の意志に従って担い、実行する。これがイエスの十字架が語っていることである。ファリサイ派の人たちは、この意味が分からない。罪人たちとの共食は彼らの益にはならない。むしろ、汚れると考えて、避けてきた。それが常識だと思ってきた。イエスが罪人たちとの共食を実行するのは非常識なのだ、彼らには。それは教師というものではないと考えている。確かに、イエスは教師ではない。預言者でもない。神である。人間の最底辺に立つ神である。このお方が、最底辺における誠実、ヘセドを実行しておられる。それは、神の悲しみを感じるからである。この思いを起こされたイエスが、マタイを呼び、マタイは罪人たちを呼び、徴税人たちを呼ぶ。そして、イエスを呼んで共食を実施した。イエスが呼ぶことで、共食という憐れみが実行された。ヘセドが実行された。これが、イエスが来た意味である。そして、我々呼ばれた者たちの生きる方向である。神のヘセドをいただいた者として、神に仕え、人に仕え、誠実に生きていくために、イエスに従って生きて行こう。あなたに注がれた神のヘセドは、共食という形の憐れみにおいて働く神の力である。
祈ります。

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