「否定を収穫する」

2020年7月5日(聖霊降臨後第5主日)
マタイによる福音書9章35節~10章15節

「しかし、歩いて行って、あなたがたは宣教しなさい、こう言って、天の国は近づいたと。弱っている人たちを癒しなさい。死者たちを起こしなさい。ライの人たちを清くしなさい。悪霊たちを追い出しなさい」とイエスは弟子たちに言う。宣教する相手は「弱っている人たち」、「死者たち」、「ライの人たち」、「悪霊たち」である。この人たちが「イスラエルの失われた羊たち」だと言うのである。

さらに、その人たちに「只で、与えよ」と言う。何を与えるのか。宣教すべき言葉は与えられている。「天の国は近づいた」という言葉である。これを「只で取った」のだから、「只で与えよ」と言うのであろうか。そうでなければ、弟子たちが取るように与えられたものは他には示されていない。しかし、「弱っている人たち」、「死者たち」、「ライの人たち」、「悪霊たち」にこの言葉が与えられたならば、どうなるというのであろうか。「弱っている人たちが癒される」、「死者たちが起こされる」、「ライの人たちが清くされる」、「悪霊たちが追い出される」ということである。イエスが弟子たちに只で与えた言葉は、イエスの権威ある言葉。力ある言葉。それゆえに、イエスがおっしゃったことを成し遂げる言葉。弟子たちは、この力ある言葉を只で取ったのだと、イエスは言う。イエスが、彼ら十二弟子を派遣するために語った言葉だからである。

イエスは宣教の言葉を十二弟子に与えた。宣教とは宣言することである。宣言された言葉が、イエスの言葉である限り、イエスが語ったことを成し遂げる言葉である。これを弟子たちは取った。取った言葉を只で与える。言葉とは、神秘宗教などにおいては「奥義」を与えるものであった。言葉によってしか、「奥義」は与えられない。しかも、密かに、選ばれた者だけに与えられる「奥義」である。当時も、このような「奥義」を与えられるということは、弟子たちの中で特に選ばれた者であり、先生の後を継ぐ者がそこから生まれると考えられていた。そのような奥義である言葉が、宣教の言葉である。しかし、この言葉は「密か」に宣教されるわけではない。ただし、弱っている人たちのような、誰からも顧みられない「否定された」存在に語るようにとイエスはおっしゃるのである。否定された存在が、神の収穫であるとも語っておられる。つまり、神のために育った実りだというわけである。否定されている存在が収穫だとイエスはおっしゃる。

我々の世界では、否定され、顧みられることがない存在は、決して収穫や実りとは見なされない。むしろ、それらはカスであり、屑であり、なくても良い存在だと見なされる。捨てられて良いものなのである。いや、すでに捨てられている存在である。この「否定されている存在」が神の収穫であり、神のために実った存在だとイエスはおっしゃるのである。その大切な実りが、見捨てられている姿を見て、イエスははらわたを痛めるほど、悲しんだ。その結果、弟子たちにこう言うのだ。「収穫は多い。しかし、働き人が少ない。それで、収穫の主に願いなさい。働き人たちを追い出すように、彼の収穫へ」と。不思議なことに、イエスは「働き人たちを追い出す」と言う。追い出すということは、居るべき場所はそこではないと追い出すことである。居るべき場所へと神が追い出すようにと願うこと、祈ることをイエスは求めた。そして、祈った者たちが十二使徒として追い出される。祈るということは、当事者であることを引き受けることである。祈ったように従うことが祈ることである。祈ったように働くことが祈ることである。従って、イエスは祈ることを求め、素直に祈った者たちが十二使徒として選ばれたということである。

さて、この十二使徒たちが宣教する言葉によって、何が変わるのであろうか。「否定されていた者たちが神の収穫である」という逆転された現実が現れるということである。否定は収穫ではないにも関わらず収穫であるとすれば、肯定は収穫ではないということになる。肯定は、神が実らせ給うたものではない。人間が実らせた肯定の果実。これが、我々の世界の普通と言われるものである。しかし、神は人間の実りの中で、否定され、捨てられてしまう人たちをご自身の実りとして集め給う。これが我々キリスト者である。そして、キリスト者は、この世の捨てられた「否定」を収穫する神に従って、宣教する。「天の国は近づいた」と。

我々の宣教は、「天の国の接近」を宣言することである。接近したと二千年前に宣言されたにも関わらず、未だに接近のままなのかと訝る人もいるであろう。この「天の国の接近」は今起こっている。我々がみことばを聞く度に起こっている。天の国の方が我々弱っている者たちに近づいてくださる出来事がみことばを聞く度に起こる。しかし、我々人間は聞く度に、忘れてしまう。それゆえに、繰り返し宣教される。繰り返しみことばを聞かなければならない。そして、繰り返し宣教しなければならない。宣教することによって、聞く。聞くことによって、宣教する。この繰り返しを行ってきたのだ、我々キリスト教会は。そして、教会は宣教を止めたことはない。止めてしまえば、我々は教会ではない。否定され続けている存在に対して、宣教し続けるのが教会である。

この世の価値の中では、否定であるが、神の世界に置いては肯定される収穫である。否定が肯定される世界が「天の国」である。この「天の国」が近づいている。向こうからやって来る。我々のそばにある。ここに生きざるを得ないで、「否定」され続けている存在に、「天の国」が近づく。天の支配が近づく。天の意志が、神の意志が、神の言葉が近づく。

弟子たちを追い出したように、神の言葉は否定されている存在を追い出す。「お前は、そこに留まるべきではない」と。「お前の場所は、肯定を求める場所ではない」と。「お前の場所は、否定の場所」、「否定が収穫であるような場所」、「天の国」なのだと、神の言葉は我々を追い出すのだ。我々がしがみついている世界から追い出す神の言葉。しがみついていれば、いつか肯定されるかもしれないと思っている存在が、「否定」のままに「収穫」であることを生きることができるのだ。神の言葉は、そのように我々に語っている。イエスが弟子たちに与えた宣教の言葉はそう語っている。「天の国は近づいた」と。

否定が肯定されるのはこの世ではない。肯定されるのは「天の国」においてである。この世では、「否定」は否定のままである。しかし、「天の国」は近づいているのだから、この世で「否定」を悲しむ必要はない。この世では「否定」を負わされているであろう。しかし、「天の国」では「否定」ではなく「収穫」なのだ。その「天の国」が近づいているのだから、もはやこの世に縛られる必要はない。この世の価値を越えて、「天の国」の価値の中で生きるのだ。それが「弱っている人の癒し」であり、「死者の起こし」、「ライの浄め」、「悪霊の追い出し」である。この逆転を行うのが、神の言葉、イエスの宣教の言葉「天の国は近づいた」という言葉である。

この言葉を託された十二使徒たちは、否定を収穫するために遣わされる。否定を収穫するために、歩き始める。否定を肯定にするためではない。否定が否定のままで実りであり、神の収穫であることを宣言するためである。「天の国が近づいた」がゆえに、すべての否定が収穫として神の許に集められる。この幸いを宣言するために、十二弟子は派遣される。

使徒、遣わされた者とは、「否定を収穫する」者たちである。弱っている者たちの癒しは、弱さというものがなくなることではなく、弱さを受け入れることで神の力に支配されることである。死者の起こしは、死者でなくなるのではない。死者であることによって起こされる。ライも同じ。そして、悪霊も悪霊であるから追い出される、天の国から。否定であるままに神の収穫として生きる者たちが、キリスト者なのである。この世の価値によって捨てられて、神の実りとして集められた存在なのである。

今日、共にいただく聖餐は、この世に否定されたイエス・キリストが神の実りとして与えてくださるご自身の体と血。このお方の真実に与って、我々もまた否定を収穫された者として、従って行こう。

祈ります。

Comments are closed.