「恐れなき魂」

2020年7月12日(聖霊降臨後第6主日)

マタイによる福音書10章16節~33節

 「それで、あなたがたは生ぜよ、賢い者として、蛇のように。純粋なものとして、鳩のように」とイエスは言う。純粋さと賢さで、狼たちに対向できると言う。本当だろうか。純粋であれば、騙されやすいのではないのか。賢いとは言え、蛇のようなのだから自分の立場を守るために賢く狼に取り入るのではないのか。それでは、結局狼の食い物にされてしまうではないか。それが、イエスが言うことであろうか。しかし、イエスはさらにこう言っている。「引き渡されたとき、思い悩むな、どのように、何をあなたがたが語るかを。なぜなら、あなたがたに与えられるであろうから、そのときに、あなたがたが語ることを。なぜなら、語る者たちではないから、あなたがたは。むしろ、あなたがたのうちで語るあなたがたの父の霊が、語るものである」と。つまり、イエスが言う賢さと純粋さは、この神に対する賢さと純粋さなのである。神が語っておられることを受け入れる賢さと、神が語るままに語る純粋さである。それは、どのようにして可能なのであろうか。もちろん、父なる神の霊がわたしのうちに与えられているから可能なのである。父の霊の働きに対する従順がここで言われている賢さと純粋さなのである。
そのように生きているとき、我々は恐れなく生きることができるとイエスは言う。「あなたがたは恐れてはならない、彼らを」と。恐れてはならないという命令形が語っているのは、恐れる必要はないということであり、恐れなきことが神によって造られた魂本来の姿であるということである。この魂の本来性を我々罪人は失っている。それゆえに、恐れが生じる。それは、自らの土台を失っているからである。自らが確かな土台の上に生かされていると知っている者は、揺るがないであろう。この土台を見失っているならば、うろたえてしまう。
「恐れなき魂」の姿は、今日の旧約聖書の日課にも記されている。エレミヤが迫害され、罵られてもなお、立つことができるのは「主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます」からである。神ヤーウェは、恐るべき勇士である。畏れるべきは神ヤーウェのみ。神を畏れているならば、人間を恐れることはないとエレミヤは語っている。この信仰はどこから来たのか。ヤーウェに広げられたからである。「惑わされる」と訳されている言葉はハーザクというヘブライ語で「広げる」、「開く」という意味である。神によって開かれて、神の勝利を受け入れることになったとエレミヤは語っているのである。エレミヤは、神に逆らうことができず、広げられ、受け入れるようにされた。逆らいたい気持ちがあっても、もう辞めたいという気持ちがあっても、神がエレミヤを広げ、開いて、ご自身の勝利を認めさせた。それゆえに、エレミヤは神ヤーウェを「恐るべき勇士」と呼ぶのである。太刀打ちできないお方であると告白するのである。どうして対向できないのかと言えば、エレミヤの魂を造ったお方が神ヤーウェだからである。
イエスもこうおっしゃっている。「あなたがたは恐れるな、体を殺す者たちを、しかし、魂を殺すことができない者たちを。しかし、あなたがたは畏れよ、魂と体を破壊することが可能な方を、地獄において」と。神ヤーウェは、体と魂を造ってくださった。それゆえに、それらを破壊することも可能である。人間は、体を殺すことはできる。しかし、本来的に破壊することはできない。まして、魂を破壊することはさらにできないと、イエスはおっしゃる。魂の破壊は、神との関係が失われるときに生じ始める。そのとき、人間への恐れも生じる。そして、神を忘れる。従って、神を畏れることが、「恐れなき魂」として生きるために肝要なことである。それがわたしの告白とイエスの告白の一致となって現れるとイエスはおっしゃっている。
わたしが告白すべきは、神への畏れである。神を畏れるということは、神の前にひれ伏すことであり、神にすべてを委ねることである。エレミヤが言うように「わたしのもめ事を、あなたに隠さない」ことである。エレミヤは苦悩の預言者と言われるが、彼は悩み苦しんでいる自分自身を、神に打ち明けている。神に訴えている。その訴えを聞いてくださると信じている。それゆえに12節で「わたしのもめ事を、あなたに隠さない」と言う。それが、エレミヤが神ヤーウェにすべてを委ねていることである。そして、神の前にひれ伏していることである。
我々には、悩みがある。苦難がある。イエスもおっしゃっている。「狼たちのただ中にある羊のように、わたしはあなたがたを派遣する」と。苦難をもたらす狼たちがいる。争いをもたらす狼たちがいる。狼たちは必ずいる。そのただ中にある羊なのだ、あなたがたは。しかし、派遣された者は、派遣したお方の権威の下に生きている。それゆえに、狼たちを恐れる必要はない。派遣したお方の力を信頼していれば良い。憎まれても、耐えることができる力を与えられている。派遣者イエスの権威を与えられている。弟子は師のようであれば良いとも言う。師を愛しているのであれば、師のように生きる。愛しているお方と同じように生きようとする。それが弟子である。そして、イエスを主であると告白する。わたしは神を畏れる者であると告白する。この告白の中で、イエスと父なる神が生きて働いておられる。
告白することは、自らが語りながら、聞くことである。告白することで、我々は自分自身が信じていることを確認している。再認識している。それが我々の告白である。我々の告白の中に、神が語る言葉があり、神が語らせ給う言葉がある。それゆえに、我々は告白の度に、自己認識を更新しているのである。自己同一性を確認しているのである。
我々は告白において、自分がどなたを信じているのかを告白している。信じているお方が何をしてくださったのかを告白している。天地の造り主を告白することで、わたしは天と地と共に造られた存在であると確認している。救い主イエスを告白することで、わたしは主の十字架によって救われた魂であることを確認している。聖霊を告白することで、聖霊によって神の意志を知らされ、信ずべきこと、語るべき言葉を与えられていると確認している。死も命もすべては、神の働きの中にあると確認している。罪の赦し、復活、永遠の命を与えられているわたしであることを確認している。この告白の中で、エレミヤが言うように、神はわたしを広げてくださったと告白している。すべてを受け入れさせ、すべてを信頼させ、すべてを委ねさせるお方が、我々の神である。このお方によって、我々は造られた。このお方によって、救われた。このお方によって、広げられていく。わたしの体は殺されるかもしれない。しかし、わたしを破壊することは誰にもできない。神がわたしという魂を造り、生かし給うのだから。
それゆえに、人間を恐れる必要はない。恐れなき魂は、告白する魂。自らのすべてを神の前に広げる魂。悪しきことも良きことも、神はご存知だと隠れなく生きる魂。そのような魂こそ、真実を生きる。神に造られた本来のわたしを生きる。この魂を回復するために、イエスは十字架を負い給うた。十字架に至るまで、神への従順を生きてくださった。このお方に従う魂は、自らを憎み、捨て、自分の十字架を取って、従っていく。恐れなき魂として、従っていく。この従順に於いて、我々はイエスと共に生きるのである。
告白するという言葉は、新共同訳では「仲間であると言い表す」と訳されているが、「同じことを語る」という言葉ホモロゲオーである。「仲間であると言い表す」などということではない。告白はイエスにおいて同じ言葉を語ることである。単に「イエスは仲間である」などということではない。我々が告白するのは、神が造り主であること。イエスが救い主であること。聖霊が日毎に罪を赦したまうこと。そして、わたしは何者でもないと告白し、神を畏れて生きる。それが告白する魂であり、恐れなき魂である。
我々キリスト者は、神によって自分を広げられ、神の支配を受け入れるようにされた魂。我々の魂の主である神、「恐るべき勇士」がイエス・キリストを通して、我々と共に生きてくださる。勇気を持って生きて行こう。
祈ります。

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