「価値あるもの」

2020年7月19日(聖霊降臨後第7主日)
マタイによる福音書10章34節~42節

「預言者の名へと、預言者を受け入れる者は、預言者の報いを取るであろう。義人の名へと、義人を受け入れる者は、義人の報いを取るであろう」とイエスは言う。預言者ではなくとも、預言者の働きをしていなくとも、預言者の名が与えられた方向に向かって、預言者を受け入れることで、預言者の働きの報いと同じ報いを取るのだとイエスは言う。受け入れる者には、預言者の価値と同等の価値が与えられるということである。これが信仰である。
信仰とは、信じているお方をその名のゆえに、その名に心を向けて、受け入れることである。そのとき、受け入れる者は、受け入れたお方と一つとされる。それゆえに、そのお方の力に満たされる。同様に、イエスを受け入れるということは、イエスを派遣したお方を受け入れるということである。派遣された者は、派遣したお方と同等の価値を付与されている。派遣したお方の権威も派遣された者に与えられている。預言者も同じ。義人の義は与えたお方の義である。それゆえに、義人という名を正しく受け取り、受け入れる者は、義人と同じ価値を付与されるということである。働きがなくとも、信仰によって付与される。これが、信仰義認と言われる出来事である。
信仰によって、信じるお方と同じ価値を付与されることが信仰義認である。その人は働きがないのに、同じ価値を付与され、報いを取ると言われているのだから、付与された価値、報いを誇ることはできない。誇るならば、派遣したお方、権威あるお方を誇るだけである。その人が、自分を誇るならば、自分の報いしか取ることはできない。その人は報いを受けるだけの働きをしていないのだから、その人の働きの価値だけしか取ることはできない。まして、罪人は反対に支払わなければならない。報いではなく、負債があるだけである。信仰義認とは、信仰によって、報いと負債が分けられてしまう出来事である。報いを取ることができる信仰を誇りたくなるのが人間である。しかし、誇ってしまったならば、自己の価値だけになり、義とされることはない。なぜなら、信仰はその人の働きではないからである。あなたのうちに働き給う神の働きが信仰なのである。あなたを信じる者としてくださるのは神である。あなたが信じる者になることはできないのだ。それゆえに、信じる者は働きがないことを認めて、報いを与え給う神に感謝するだけである。
さて、イエスは、この言葉を語る前に、剣を投げ込むために来たとおっしゃっている。家族を分けるため、分裂させるために来たとおっしゃっている。それは、イエスだけを愛するようにさせるために来たということである。神だけを愛するようにさせるために来たということである。それゆえに、自然的な関係によって縛られていた存在をそれぞれ切り離す。切り離すことによって、家族は敵となると言われているが、それは自然的関係から離れて、それぞれが自己を明確にされることである。明確にされた自己同士が、改めて、家族としての関係を生きることが可能となる。自然的に親子であるところから、認識的に親子であるところへと結び直されること。それが、イエスの切断によって、生じる新しい事態である。この新しい事態を、イエスはこうおっしゃっている。「自分の魂を見出し手に入れる者は、それを救うことに失敗する。しかし、わたしのゆえに、彼の魂を救わないでおく者は、それを見出し手に入れるであろう」と。一般的な思考では理解不能なことであるが、自分で自分を救うことはできないということである。なぜなら、我々人間は罪を犯したとき、自分の力を罪の方向へと使用してしまったからである。それゆえに、我々は自分の力を使用するとき、罪を犯すことしかできないようになってしまったのである。ルターは、これを罪の奴隷的意志と呼ぶ。このようになってしまった人間を罪人と呼び、そのようにさせる罪を原罪と呼ぶ。それゆえに、人間は自分の価値から言えば、罪人としての価値である負債しかないのである。そのような人間が、働きがなくとも、信じるお方と同じ価値がある存在と認められる。これを信仰義認と呼ぶ。
もちろん、信じるお方と同等の価値を付与された者は、信じるお方によって、働くことが可能とされる。信じるお方がその人のうちで働いてくださるからである。その人の働きの報いではなく、その人のうちで働いてくださるお方の報いを受け取る。それが、今日イエスがおっしゃっていることである。そのためには、自分を捨てる必要があるのだ。
新共同訳で「相応しくない」と訳されている言葉は、アクシオスという形容詞で、「価値がある」、「重さがある」という意味である。これは、天秤に同じ重さの重りを乗せると釣り合うことから来ている言葉である。「相応しい」ということは、同等の価値、重さがあるという意味である。イエスを第一に愛する者は、イエスと同等の価値がある存在だとイエスはおっしゃっているのである。イエスの価値と等価である人は、イエスの価値を付与されている。その価値は、その人の価値ではなく、イエスの価値である。イエスを愛するということは、イエスとひとつとされること。イエスの価値を認め、イエスの価値を愛する者は、イエスと同等の価値がその人のうちに生じている。これがイエスを受け入れることであり、イエスを信じる信仰である。従って、信仰によって、イエスと同じ報いを受けることになる。これが信仰によって義と認められるという出来事である。そのためには、自分を捨てることが必然であるとイエスはおっしゃっている。
父や母、息子、娘といった家族との関係を切り離されて、自己のしがらみを捨てること。そして、自己自身の力や誇りを捨てること。それがあって、ようやくイエスに純粋に従うことができる。自分を捨てることができない人、家族を捨てることができない人は、イエスに従うことはできない。家族によって、自分の魂を手に入れると思っている者は、イエスに従うことはない。たった一人にされて、ようやくイエスに従うことが可能とされる。それさえも、その人の決断ではなく、神の力によって決断させられること。従って、イエスに従ったと自分を誇ることさえも、我々はできないのである。
キリスト者は、徹頭徹尾、キリストに規定され、キリストに従わせられ、キリストに働いていただいている存在なのだ。我々は、キリストのおかげで、信仰を起こされている。我々は、働きがなくとも、キリストのおかげで救われている。我々は、キリストのおかげで、小さな存在を受け入れることが可能とされている。自分の力を見る者は、受け入れることができない。小さくされている存在に、キリストの愛を見る者は、キリストのゆえに、小さな存在を受け入れる。それだけである。これは、この世の誰も行わないことである。この世は、自分の報いのためにしか働かないからである。自分に益になることしか行わない。自分の益を集めて回る。そのようなこの世は、イエスの価値を認めない。キリストの十字架を認めない。小さくされている存在に注がれている神の愛を認めない。それゆえに、自分もそのような小さな者になれば愛されないと思い込む。そして、大きな者になろうと生きることになる。小さな者を押し除け、排除し、大きくなるための価値を貯め込もうとする。こうして、自らの魂、神が造り給うた魂を破壊してしまう。あなたが、そのような愚かさに陥ることがないとすれば、そこから切り離してくださったお方がいるのだ。このお方こそ、我らの主イエス・キリスト。剣を投げ込み給うお方。
このお方のご意志を素直に受け入れ、このお方の価値を付与される者として生き続けるために、キリストはご自身の体と血を我々に分与してくださる。我々に分け与えられたキリストの体と血は、我々受け入れる者を同じ価値を付与された者として一つにしてくださる。我々は、小さき者として生きてくださったキリストを受け入れ、小さき者である自分を受け入れ、小さき者である他者を受け入れて生きる。このように生きる力を分け与えてくださるキリストに感謝して、聖餐に与ろう。あなたは価値ある者。キリストに相応しき者。神の家族。キリストの体なのである。
祈ります。

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