「受容する休息」

2020年7月26日(聖霊降臨後第8主日)
マタイによる福音書11章25節~30節

 「あなたを讃美します、父よ、天と地の主よ。なぜなら、あなたは隠したから、これらのことを、知者たちや賢者たちから。そして、あなたは啓示したから、それらを幼子たちに」とイエスは言う。「これらのこと」とは、この直前に語られていた「悔い改め」のことである。神の力ある業を見たならば、異邦人の地は悔い改めたであろうとイエスはコラジン、ベツサイダ、カファルナウムを嘆いた。「悔い改め」は啓示されることだと言う。啓示であるならば、受け入れることしかできない。神が啓き示すことを受け入れることが啓示を受けることである。従って、知者や賢者はただ受け入れることができずに、啓示を受け取ることができないとイエスはおっしゃる。幼子たちは、ただ受け入れる。それゆえに、啓示を受けることができるのだと、イエスは言う。しかし、幼子たちとはいったい誰なのか。
幼子とは、自らに力が無く、ただ与えられるものを受け入れる存在である。自らに与えられるものは良いものだと受け入れる。頭で計算して、考えて、これは良いから受け入れようなどということはない。母や父から与えられるものを素直に受け入れる。それが、「悔い改め」へとつながる在り方である。この「悔い改め」の啓示は、父なる神、天地の主から来るとイエスは言う。しかも、その啓示を受けることができるのは、「息子が望む者」だと27節では言われている。「息子」すなわちイエスが啓示することを望む者とはいったい誰なのか。どのような存在なのか。もちろん、幼子である。
新共同訳は「幼子のような者」と訳しているが、「ような者」という言葉はない。ただ「幼子たち」である。イエスは、父なる神との関係において「幼子」である者たちのことを語っているのである。父なる神が与え給うものを受け入れる者こそ、父なる神の幼子である。「悔い改め」は父が与え給うものだということである。父が与え給う「悔い改め」を受け入れ、従う者が幼子である。与え給うものだけではなく、負わされるものをも受け入れる。受け入れる人は生きる方向を転換する。すべてを受け入れる方向で生きる。それゆえに、イエスが与え給う休息も受け入れる。素直に、イエスの許で休息に与る。
イエスはこうおっしゃっている。「わたしもまた、あなたがたを休ませよう」と。「わたしもまた」と言うのだから、先に誰かが「あなたがたを休ませている」のである。それが父なる神である。父なる神が、あなたがたを休ませている。そして、わたしもまたあなたがたを休ませようとイエスは言う。これはどういうことであろうか。
イエスは、父なる神の幼子として、父の与え給う休息を受け入れている。父なる神が、イエスに休息を与え、イエスはそのお方と共に、あなたがたに休息を与える。イエスと父なる神は一つ。あなたがたが受容する休息を、イエスはまず初めに受容して、与える。父なる神とイエスと、あなたがたとは受容において一つとされる。受容する休息において、一つとされる。あなたは、父なる神のもの。あなたは、キリストのもの。あなたは、父と子との休息のうちに受け入れられることを受け入れることで、休息に与る。これが今日、イエスが我々に啓示し給うことである。
我々人間は、少し考えすぎて、思い悩む。考える葦だとしても、人間的なレベルで考え、神の事柄を受け入れることができない。それが知者、賢者である。幼子は、人間的なレベルでは十分な知識はない。それゆえに、与えられるものを受け入れる。この幼子が語っているのは、負わされるものを受け入れる在り方でもある。イエスは言う。「わたしのところに来なさい、疲れ果てている者たち、負わされている者たちすべては」と。負わされるものを受け入れる者たちは、素直にイエスの招きに従うであろう。それゆえに、彼らは休息を受容する。負わされるものを受け入れるように、休息も受け入れる。そのような者たちが幼子たち。そのような者たちがイエスのくびきを負う。そのような者たちがイエスと共に負うべきものを受容して生きる。そのとき、彼らの魂は休みを見出すであろう。身体的に疲れたとしても、魂は休みを見出す。これが受容する者たちの休息である。
イエスは、この休息を与えるために、くびきを負っている。この休息が、我々の魂を休ませ、再び立たせるために、くびきを負うイエス。このお方によって、我々は望まれて、啓示を受ける。くびきを負い給うお方が、我々に悔い改めを、方向転換を望み給う。このお方の望みに従って、父なる神は啓示し給う。悔い改める生き方を開いてくださる。そこに、休息がある。悔い改める者は、魂に休息を得る。なぜなら、悔い改める者は素直に神に向かうからである。我々の魂は、自分を誤魔化すことができず、苦しんでいる。その苦しみから解放されるには、素直に自らの罪を認め、悔い改めることである。悔い改めは、魂に休息を与える神の恵みである。この恵みを素直に受け入れる者が、イエスが望み給う者。イエスが負い給うくびきは、その者のためにある。十字架は幼子たちのためにある。悔い改めを受け入れる者たちのためにある十字架。この十字架の上で、イエスはすべての者たちを招いておられる。しかし、疲れ果てている者、負わされるものを負っている者だけがイエスの招きを受け入れる。そこにおいて、我々人間は分けられるのだ。
負わされるものを負っている者とは、疲れ果てている者である。負いきれず、疲れ果てている。しかし、イエスの許に来るならば、その人の魂は休息を得る。なぜなら、イエスは柔和なる者、心に低き者。それゆえに、イエスは疲れ果てている者の思いに共感し給う。疲れている者に、さらに重荷を負わせることはない。わたしがあなたの重荷を負ったのだと言い給う。あの十字架の上で負ったのだと言い給う。イエスの十字架を仰ぐ「悔い改め」によって、我々は魂に休息を得る。自らを責めていた我々が休息を得る。自らにうちひしがれていた我々が休息を得る。イエスが受け入れ給うがゆえに、休息を得る。受け入れ給うお方を受け入れるがゆえに、幼子たちは休息を得る。我々の疲れ果てた魂が休息を得る。
イエスは、我々の魂のために十字架を負ってくださった。我々は罪に苦しみ、思い悩みに翻弄され、この世の在り方に惑わされている。イエスは、同じように、人間の罪に苦しみ、人間の思い悩みを憐れみ、人間の在り方に嘆いておられる。それは、我々人間の哀れさを憐れむイエスの魂なのである。イエスの許で休息を得るのは、イエスが憐れむ魂である。イエスが望む啓示は、そのような者たちに与えられる。負わされるものを負う者たちに与えられる。素直に受け入れる者たちに与えられる。
我々の苦しみをイエスはご存知である。我々の哀れさをイエスはご存知である。我々の愚かさもイエスはご存知である。罪深き者の疲れ果てた魂をご存知である。このお方が我らの主、イエス・キリスト。このお方によって、我々は魂を癒され、素直に悔い改め、神に従う道を歩み続けることができる。自らの罪に苦しむ者こそ、イエスが望み給う啓示を受け入れる者。イエスと共に生きる者。イエスの憐れみを受け入れる者。
我々は、イエスによって救われたキリスト者であるが、救われたとは言え、この世に生きざるを得ない。生きざるを得ないこの世の中で、この世の価値に流されてしまう。救われてもなお、苦しみの中に埋没してしまう。そこから、今一度、父なる神の方へと向き直るようにと、イエスは日々語りかけてくださる。
疲れ果てているあなたが、自らの魂の苦しみにさいなまれているあなたが、イエスの言葉によって、啓示を受ける。悔い改めて、休みを得る。受容する休息において、真実に魂の休みを得る。あなたの魂が立ち上がる力を得るために、十字架を負い給うた主は、あなたのために苦しみ給うた。あなたのために、死んでくださった。あなたのために、復活してくださった。このお方の下で、我々は魂を回復され、再び立つ者とされる。わたしのところに来なさいとおっしゃるイエスに従う魂に幸いあれ。あなたは父なる神の幼子なのだ。
祈ります。

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